ドードー鳥と秋の海(前編)

「お前ムカつくんだよ!」
 という罵声と共に桐島ふぶきが弁当の中身を顔にぶちまけられたその時、ボクは教室の一番後ろの席でラヴクラフトの短編集を読み耽っていたところだった。
 だからその事前に一体どのようなやり取りがあったのか、黙ったまま睨み合っていたのか、それとも二、三の口論を経てだったのかとか、そういう事については一切分からなかった。ボクは一度本を読み始めると周囲の物音や状況になど一切気が向かなくなってしまう。
 とは言え、大崎ユウヒの罵声はさすがにボクの読書への集中力すら打ち破る大きさだったので、ボクは何事かと思い、手早く本に栞を挟み込んで顔を上げたのだ。
 ふぶきが顔に弁当をぶちまけられたと分かったのは、まさにその直後である。
 しんと静まり返った教室の様子、皆の視線、座ったまま呆然とするふぶき、そしてそんなふぶきを見下ろす大崎ユウヒという構図から、弁当をぶちまけたのが大崎ユウヒである事もまず間違いはなかった。
 そして大崎ユウヒがぶちまけたのがふぶきの弁当であり、つまるところ今朝ボクがこしらえた弁当であった事も疑いようがなかった。
 弁当の隙間を埋めるために入れたピンク色のカマボコが、ふぶきの頬にぺったり貼り付いていたからだ。
 どうしたものか、とボクは思った。
 何故こんな状況になっているのか、まずその事が知りたかったが、あいにくボクの周囲に人がいない。ボクは溜め息を吐いて立ち上がり、立ち尽くすクラスメート達を押し退けるようにしてふぶきの方に向かった。
 ふぶきは依然、ぽかんと口を開けたままで凍り付いたように大崎ユウヒを見つめている。
「食べ物を粗末にするのはどうかと思うよ」
 大崎に言いながら、ボクは床に転がった弁当のおかずを拾っては同じように転がっていた弁当箱の中に放り込んだ。折角作ったのに食べられる事もなく埃まみれになったおかずを見ると少し寂しい。
 細かいものは無視して適当に散らばった弁当を片付けたボクは、ポケットからハンカチを出してふぶきの手を取った。
 ふぶきはそれでようやく我に返り、ボクを見て、
「エッちゃん……」
 と、蚊の鳴くような声で言った。
「顔と服、洗ってきな」
 ボクが言うと、ふぶきは頷きもせずふらりと立ち上がって教室を出て行く。その足取りはおぼつかなくて、生まれ立ての子山羊か何かを連想させた。
 ボクは再び散らかった弁当を片付ける作業を始めた。大崎ユウヒは自分の行動に興奮しているのか、少し息を荒げたままで依然そこに立ち尽くしていた。
「ずっとそこにいられるとさ、邪魔なんだけど。それとも君、手伝ってくれるわけ?」
 ボクが言うと、大崎ユウヒは一瞬、びくりと身体を震わせた後で教室から走り去った。
 それが、昼休み終了10分ほど前の出来事だ。
 ボクは弁当のおかずを拾い上げて雑巾を使って床やらふぶきの机やらを拭き、そうこうするうちにふらふらとふぶきが戻ってくる。
 ボクが椅子を下げてやると、ふぶきは崩れ落ちるようにその椅子に腰かけてまたあんぐりと口を開けたまま呆けていた。
 いつもそうなのだ。
 ふぶきには人の悪意というものが基本的に理解できない。だからそういう状況に直面するとパニックを起こしていつまでもボーッとしている。
 こんな状態のふぶきにあれこれ問うたところで何の応答も期待できないし、よしんばふぶきが平静を取り戻したとしても、そもそもふぶきに自分が何故そんな事をされたのかという事を理解はできないわけだから同じ事だ。
 ふぶきの髪や顔にまだ弁当のおかずがくっ付いたりしていないかをひとしきり確認した後で、ボクは自分の席に戻って本を開いた。
 そして誰に聞くのが一番話が早いかを考えていた。
 まあ、たぶんこのテの情報に一番敏いのは去年ふぶきと同じクラスだった植松だろう。今は大崎ユウヒと同じクラスのはずだから、その意味でも都合がいい。
 今日の授業が終わったら早速植松のところに行こう、そう決めてボクは本の方に集中した。
 ああ、それにしてもインスマウスの住人はおっかない連中ばかりだ。

 桐島ふぶきとボクの出会いは17年前、ボクが生まれ落ちたまさにその日、ふぶきも同じ病院で産声を上げて、互いに早産だったボク達は仲良く隣同士の保育器に入れられた、というそこからの付き合いだ。うちも近所で、幼稚園から小学校中学校、そして今の高校に至るまでずっと同じ。
「お前らホント仲いいな」
 なんて言われつつも、別にただの幼馴染みだし、と答えたりして、腐れ縁だよなあ、なんて思ってたところに、
「え? わたしはずっとエッちゃんと付き合ってるよ?」
 と、ふぶきに言われたのが去年の冬だ。
 あの時は正直、たまげた。
 ボクはふぶきとそんな話をした事もなかったし、そんな自覚もなかったから。
 けれどふぶきは幼稚園の時にボクが言った、
「ボクがふぶきに寂しい思いはさせない」
 という言葉をずっとずっと憶えていて(言った当の本人であるボクすら忘れていたのに)、その時から今に至るまでボクと付き合っていると思っていたという、そういう話だった。
 鳥としての進化を拒否してしまって鈍重になり、やがて絶滅してしまったドードー鳥のごとく、ふぶきは幼稚園の頃の純真さを高校生になる今まで失わずに成長してしまっているのだなあ、と当時のボクは思ったものだ。

 さて、そんなふぶきがどうして弁当をぶちまけられるような憂き目に遭ったのか、という点である。問題は。
 何せふぶきに弁当をブチまけてきたのは大崎ユウヒなのだ。
 大崎ユウヒという人間が、わりといかにも女子らしい、いつも仲の良い数人の女子グループで行動するようなタイプだという事はたまに隣のクラスに足を運んだ時に目にして分かっていたし、そのグループの中でわりにリーダー格の、ちょっと自尊心の強いタイプであるという事も知っていた。
 そして植松によれば、「あいつ超おっかねえ」という事も。
 何でも、以前とある男子生徒が休憩時間にかしましく雑談をしていた大崎ユウヒらに、
「お前らうるせえ」
 と注意を促した事があったらしい。
 大崎ユウヒらはその生徒に対しその場では特に反論もせずおとなしく声をひそめたそうだが、翌日から、件の男子生徒の妙な噂が流れ始めた。電車の中で痴漢をしていた、というのだ。
 無論、証拠なんてない。
 ないのだが、いかにも「誰かが見ました」風な詳細な内容であり、しかもそれが日に日にいろんな人間に伝播していくものだから、ついには生活指導の教師が直々に男子生徒を呼び出す始末、男子生徒はそれを必死に否定したが、
「じゃあ根も葉もないそんな噂を誰が流すんだ? 仮にでっちあげだとしたってそんな噂を流されるお前の方にも問題があるんじゃないのか?」
 といった感じの説教をされたらしい。
 その教師は人が理不尽で一方的な悪意を他者に向けたり、その悪意に突き動かされて他者を貶めるといった可能性については考えが及ばなかったらしい。
「でもどう考えたって大崎ユウヒだよな、犯人」
 植松はそう言った。
 そして前述の「あいつ超おっかねえ」に繋がるわけだ。

 午後の授業が終わり放課後になると、ボクはすぐに席を立った。ふぶきは依然、口を開けたまま呆然としていた。このぶんだと立ち直るにはあと数十分は必要そうだった。
 隣のクラスに足を踏み入れると、植松がボクを待ちかねていたという様子で手招きをしている。
 耳が早いから、たぶん昼休みの大崎ユウヒの行動について、既に聞き及んでいるのだろう。そしてボクが事情を尋ねに来るのもお見通し、という事だ。
「アレだろ? ふぶきの事だろ?」
 空いていた植松の後ろの席に腰掛けると、何か尋ねるまでもなく植松から切り出してきた。話が早くて助かる。
「なんか、男絡みらしいよ」
 ボクが頷くと、植松は言った。相変わらずそのテの情報には敏い男だ。
「大崎の好きな奴がふぶきに告ったらしくてさ、でもふぶきがあんな調子だろ? 肩透かし食らって、断られたのかどうかもよく分からなくて参ってる、って話」
「ふうん」
 とボクは言った。
 なんだ、その程度の事なのか、と正直思った。
 中学時代にも似たような話はよくあったからだ。
 ふぶきは少しばかりエキセントリックな性格を抜きにすると大層、美人だ。下手なアイドルなんかよりも抜群に顔が整っている。スタイルだって悪くない。
 そんなふぶきに熱を上げる男が現れるのは、だから、そんなに珍しい事ではない。
 そしてそういう連中がふぶきに告白を試みる、なんて事も言わずもがな日常茶飯事なわけだ。
 ところがふぶきは、「僕と付き合って下さい」なんて言われたところで、「え? どこに?」と答えてしまうような奴だから、告白した連中も唖然呆然として、やがてふぶきへの恋心を収束させてしまう。
 実のところ植松もそんな「収束済」の1人で、中学時代は「ふぶきって、いいよなあァ。なんか小動物みたいで。俺、守ってあげたい」なんて言っていたくせに特攻玉砕を果たしてからは、エキセントリックなふぶきの発言、行動を見てはヒヒヒとほくそ笑む「ふぶきウォッチャー」と化しているのだった。
 それはさておき、ふぶきがそうやって男どもに告白されてはよく分からない理屈ではぐらかす、というのが他の女子には面白くないであろう事は想像に難くない。
 実際、中学の時にも大崎ユウヒのような女子グループが「なにあの子。ちょっとムカつかない?」といった目でふぶきを見ていたし、実際そういう事を口にしているのをうっかり聞いてしまった事がある。
 今回の件も結局はそれと同じだという事だ。植松の言が事実なら、だが。
「それで、その大崎ユウヒが好きな男って誰なの?」
 ボクが尋ねると、植松は首を振った。
「それがよく分かんねえんだよなあ……だいたいふぶきに告った連中の噂って、すぐに広まるじゃん? 告った方が、意味不明過ぎて誰かに話しちゃうからさ。でも最近そういう噂、聞かないだろ?」
 確かにそうだった。
 中学時代から、ふぶきに告白した連中はみんな首を傾げて、「俺にはあの女は扱えない」というような愚痴を漏らすようになるし、仮に本気の本気で告白を試みて玉砕して深く傷心したとしても、時間が経つと傷が癒えて、ちょっとした小噺でもするみたいに「実はさー、俺もふぶきに告った事あるんだよね」といったような話をするものなのだ。
 そういう人間が全てとは思えないが、そもそも難攻不落の要塞ふぶきに特攻を試みるのは、ふぶきと出会って間もない時期なら誰しも一度は通る通過儀礼みたいに認識されてるから、ふぶきに告白した事を恥と思い固く己の秘密にするという人間が少ないのは確かだ。
 となると、今回ふぶきに突撃した男は、相当真剣にふぶきの事を好きだという事が窺える。
 まあふぶきに告白したのが誰であるかという事は今回の件にはあまり関係ない気がしたので、ボクはそこで話を切って立ち上がった。
「何か分かったらまた教えてくれる?」
 ボクがそう言うと、植松は「お前も大変だな」と同情の言葉をかけてくれた。
 植松はボクをふぶきのお守りというか面倒見役というか、そんな感じに思っている節がある。と言うか、ボクとふぶきを知る人間のほぼ全てが、たぶん、そう思っている。
 ふぶきがあんな性格でなければ、きっとボク達は付き合ってるとか思われるのだろうけれど、幸か不幸か、そうはならないのが世の不思議だ。
 そして実際ボクとふぶきが付き合ってるというのも、もっと深遠な、不条理と言ってさえいいミステリーだった。
 誰に真実を話したところで信じなさそうだから、ボクはふぶきとの関係が去年の冬から変わった事を誰にも告げていない。
 もっとも、変わったと言ったってそれは文字通り言葉だけの事で、以前に比べてボクとふぶきが接する時間が飛躍的に上昇したわけでも、登下校中に手をつないだりするようになったわけでも、キスやその先の淫靡な行為をするようになったわけでもない。
 だからボク自身、本当にボクがふぶきと付き合っているのかどうかよく分かってはいないのだ。正直な話。
 教室に戻ると、ふぶきはまるでコマ送りのようなスピードで鞄に教科書類を詰め込んでいるところだった。
 そしてそのコマ送りも数秒おきに一時停止してしまう。
 近付いていくと、ふぶきは一時停止したままの体勢で、
「うう」
 と呻いた。
 さすがに今回の件は直接的に悪意をぶつけられたせいでダメージが大きいものらしい。
 見かねてボクは一時停止中のふぶきから教科書を奪い取り、素早く鞄に詰め込んでやった。
 ふぶきはボクを見上げて、
「エッちゃん……」
 と呟いた。目には涙が溜まっている。
「帰ろう」
 ボクが言うと、ふぶきは小さく頷いた。