ドードー鳥と秋の海(中編)

 とぼとぼと歩くふぶきに歩調を合わせるのはなかなか面倒だった。数歩ごとに立ち止まって、ボクの後を歩くふぶきを振り返り、ついてきているかを確認する。
 ふぶきは終始俯いていた。
「ちゃんと前を見ないと転んじゃうだろ?」
 そう言ってもふぶきは「うん」と言うだけで顔を上げようとはしない。
 ふぶきが何を考えているのかと言えば、きっと「どうして嫌われたんだろう」という事だろう。
 いつもそうだ。
 陰口を叩かれたり、或いは面と向かって罵倒されたりすると、ふぶきはいつもその疑問を口にする。
 ふぶきは驚く程に無垢で純真なのだ。子供だと言ってもいい。だから普通ボク達の年代の人間なら容易く想像できるような理屈が分からない事がある。
 男子生徒どもの告白に対して素っ頓狂な答えを返してしまうのも、結局はそういう事なのだ。
 と言っても、それはふぶきが男女の恋愛という概念を理解できない、という意味ではない。昔はボクもそう考えていたが、それは正しくはなかった。
 真実は、ふぶきはボクと付き合っていると昔から思っていたから、だ。
 そしてそれ故に、そんな自分に告白するような人間がいるなどとは理解できないのだ。彼氏がいる女に告白してくる男がいる、という事実を、ふぶきは理解できないのだ。
 他者の行動や思考を想像する時、人間はまず自分を基準にするものだ。自分ならこうする、自分ならこう考える、だからあの人もこう考えたはずだ、あの人もこう行動したはずだ、そうやって想像を膨らませて結論を導き出す。
 けれど大人になれば、それとは違う方法を見出していく。成長する過程で出会った様々な人間の言動、思考をサンプリングして蓄積していく事で、自分には理解し得ない、或いは自分では到底実行できないような行動思考をする人間についても想像を働かせる事ができるようになる。
 ボクが、ふぶきを疎ましく思う女子の存在を理解できるのはそういう事だ。ボク自身はふぶきを疎ましくは思わないし、仮に自分の好きな女が他の男に告白しようが振られようが、相手の男に弁当をぶつけようとは思わない。
 けれどそういう感情を抱き、そういう行動に出る女がいるのは、分かる。
 今までにいくらでもそういう人間を見てきたからだ。
 けれど、ふぶきにはそれができない。
 ふぶきは常に自分を基準に他者を考える。純真で無垢で物を知らない、人を妬んだり憎んだりしないふぶきだから、他人に強い悪意をぶつける人間を理解できない。つまりはそういう事だ。
 そしていつも傷付く。
 ドードー鳥がその鈍重さゆえに絶滅してしまったように、ふぶきはその純真さゆえに深く傷付く事を余儀なくされる。
 それを防ぐのは、ともすれば簡単な事だ。
 ふぶきに人間の悪意を説けばいい。こういう悪い事を考える人もいるのだとか、こういう事を嫌う人間もいるのだとか、子供にしつけをするみたいに優しく、懇切丁寧に説明すれば、ふぶきだって根本的には馬鹿じゃない。理解はできるだろうと思う。
 けれどボクはそれをしない。
 ふぶきは今のふぶきだからこそふぶきなのだとボクは思う。
 仮にどこかの僻地でドードー鳥の生き残りが発見されたとして、やっぱり鈍重だから様々な動物に襲われて絶滅しかけているとして、そのドードー鳥を生き残らせるために大きな翼を与えたりしたら、どうだろう。
 飛ぶ事ができるようになったドードー鳥はドードー鳥じゃなくなるんじゃないだろうか。
 ふぶきもやっぱりそうなんじゃないかとボクは思う。
 男に告白されて、「悪いけど私、付き合ってる人いるの。ごめんなさい」と言うふぶきはふぶきじゃないし、「私が好きな人に気を持たせないで!」と言ってきた女に対し、「向こうが勝手に私を好きになってるだけでしょ? こっちだって迷惑なんだけど」と言うふぶきもやっぱりふぶきじゃない。
 名前とか見た目とか遺伝情報とかそんな物が何ひとつ変わってなくても、それはもうふぶきではない。少なくとも17年を共に過ごしてきたボクにとっては。
 だからボクはふぶきはこのままでいいと思う。そしてふぶきが傷付くのも仕方がないと思う。
 ただ、ふぶきが傷付いた時、少しでも早く立ち直れるようにはしてやりたい。傷付き過ぎたふぶきが、ひょっとしてふぶきではなくなる方向に進化しないとも限らないから。
「ふぶき」
 ふと思い付いて、ボクはふぶきの名を呼んだ。ふぶきは相変わらず俯いていた。
「次の日曜、一緒にどこか行こうか」
 ボクの言葉に、ふぶきはハッと顔を上げた。
 への字のようになっていた口元が、一瞬、ぐいっと上がり、そしてまたすぐにへの字に戻った。
 これまでボクはふぶきとどこかに出かけたり、いわゆる「デート」のようなものをした事がない。ふぶきとボクが付き合ってるという事になってから(ふぶきは昔からそう思っていたわけだが、少なくともボクがそう認識してからも)そうだ。ふぶきはそういう事を口に出して望まなかったし、ボクも何となく、今まで通りでいいかと思っていたからだ。その方がふぶきらしい気がして。
 だからふぶきが喜ぶかと思ってそう言ってみたのだが、どうもお気に召さなかったようだ。どうしたものか思案していると、ふぶきは申し訳なさそうに、
「行きたいけど……行けない……」
 と言った。
「予定でもあるの?」
 尋ねると、ふぶきは激しく首を横に振った。駄々をこねる子供の様な仕草だった。
「じゃあ、行きたいのなら、行こうよ」
 ふぶきが拒む理由が分からず再度そう告げると、ふぶきは、小さく「うう」と呻いた。
 ボクは溜め息を吐いた。ふぶきの思考回路は、17年の付き合いがあるボクでさえまだ完全には理解できないのだ。問い質すより他にない。
「理由を言ってくれないと分からないよ」
 ボクの言葉に、どういうわけかふぶきは涙をこぼし始め、ボクは心底慌てた。傍から見れば別れ話でもして女を泣かせているような光景にしか見えない。
 まるで知らない人間にそう思われるのはまだ良かった。だが今いる場所があまり良くない。ふぶきの家が近過ぎる。

 ふぶきの父親は、ふぶき以上のエキセントリックさを持つ、端的に言えば変人だ。近所のガキどもに据わった目で「殺すぞ」とか言ってしまうようなおっさんなのだ。そして彼はふぶきを溺愛している。うっかりこんなところをその親父に見られでもしたら、釘が何本も刺さったバットかバールのようなものでブン殴られかねない。
「な、なんで泣くの……」
 慌てて問うと、ふぶきは目を擦り擦りしながら、言葉を詰まらせつつこう言った。
「だっで……せっかくエッちゃんが、うぐ……作ってくでた、お弁当……うう、食べて、あげらでなかったんだもぬ……」
 その言葉の意味が、ボクにはよく分からなかった。
「……どういう事?」
 ふぶきは相も変わらず涙と鼻水でぐずつきながら、
「それなのに……エッちゃんに、遊びにつれて、行ったりしてもらったら、ぐう……悪いもん……」
 と言った。
 それでようやくふぶきの思考が想像できた。
 自分は悪い子だからお出かけはできない。
 という事だ。たぶん。理不尽に弁当をブチまけられてどうしてそんな理屈に辿り着けるのかは甚だ疑問だったが、そのあたりにはあの奇矯な親父が関係しているのかもしれない。自分で食事をひっくり返しておいて、「俺に食事をひっくり返させるような悪い子は外に連れて行かん!」くらいの事は言いそうな親父だからだ。
 オイオイ泣くふぶきを、ボクは軽く撫でてやった。小刻みに頭を震わせているふぶきはまるで雨に濡れた小動物のようだった。
「それは、気にしないでいいよ」
 とりあえず、ボクはそう口にする事しかできなかった。
 ひょっとするとふぶきが弁当事件以降始終落ち込んでいたのは、大崎ユウヒの悪意について考えていたのではなく、ボクの弁当をふいにしてしまったからなのだろうか? 自分がどうして嫌われたのだろうという悩みを差し置いて、ボクが作った弁当を食べられなかった事の方が、ふぶきにとっては重大な悩みであったのだろうか?
 ボクは何となく申し訳ない気持ちになった。
 確かにふぶきに弁当を持たせてやったのは事実だ。けれどそれは別にふぶきのために作ったわけじゃない。
 友人と旅行に出かけた母親の代わりに、ボクが弁当を作らなくてはいけなかったのだ。母は父にいつも弁当を持たせていたからだ。
 普通の家ならそんなもの小遣い銭を渡して外食させればいいだろうって話なのだろうが、うちの父親は昔ギャンブルにはまっていた事があって、そんな父に小遣いを渡すなどもっての外、というのが我が家の鉄の掟である。
 だから母親のいない間の食費は一切ボクが管理していて、そのせいで父親に弁当を作るのもボクの役目になった。うちの父親は料理なんかできやしない。
 無論、ボクだって別段料理は得意じゃない。家庭科でちょっとやった事があるぐらいだ。
 だからうっかり量を多く作り過ぎて、余らせるのも勿体ないから予定より1つ多く弁当ができてしまった。
 ふぶきに渡したのはその余りの弁当なのだ。
 そんな「ついで」の弁当について、ふぶきは真剣に涙を流しているのであり、流石のボクも罪悪を感じずにはおれない。
 まるでボクがふぶきを泣かせてしまったような錯覚すら起こる。
 困り果てて、ボクはふぶきを撫でながらあれこれ考えた。そして言った。
「じゃあ日曜日出かける時はもう1回お弁当、作るよ。それを食べてくれたらいい」
 その言葉に、ふぶきは身体を硬直させ、おずおずとボクを見上げた。
「……そうしたら、エッちゃん、怒らない?」
 そもそも怒っていないのだから今イチ話が噛み合っていない気もしたが、議論しても詮ないのでボクは頷いた。
「怒らないよ」
 ふぶきは涙と鼻水をゴシゴシ袖で拭いて、
「いひ」
 と笑った。
 まったく扱いにくい。
 けれどそんなふぶきを愛しく思う気持ちがあるのも事実だった。
 再び歩き始めながら、ボクは日曜日にどこに出かけるかをふぶきに尋ねた。
 ふぶきはさして迷う様子もなくそれに答えた。
「うみ!」
 それで行き先が決まった。