ドードー鳥と秋の海(後編)

 夏ももはや過ぎて肌寒くすらなっている今の時期にどうして海に行きたいなんて言い出したのか、ボクには理解できなかった。けれどまあ、ふぶきが喜ぶのならそれでいいかと思って承諾したのだ。
 日曜日が来て、海からほど近い駅で電車から降り立った時、ボクはそんな自分に強く後悔の念を覚えた。
 潮風がびゅーびゅー吹いて、ボクが着てきた程度の服装では寒さに歯が震える程だった。
 ふぶきは名前の通り寒さに強いところがあって、まるで堪えている様子もない。それどころか「風が魚のニオイ!」と言って駆け出すような始末だった。
 想像はしていたけれど、あまりデートっぽくはないな、と思った。
 どちらかと言うと、小学生ぐらいの親戚の女の子を遊びに連れて行ってやっている、という感覚の方が近い。
 ボク達が訪れたのは、海が近くて寺社仏閣もいくつかある観光地で、駅前から続く道は参拝路にあたり、ちょうど何かの催事の日だったのか、その参拝路にちらほらと屋台のようなものが出ていた。
 目ざとくそれを見付けたふぶきは、
「エッちゃんとうもろこし!」
 と言って一目散にそちらに向かい、ボクの意見も聞かぬままで、「とうもろこし下さい」と注文を始めた。
 慌ててボクもふぶきの方に駆けた。この「お出かけ」の間、ボクはふぶきが財布を落としたりしたら大変だと思い、電車に乗る前に財布はボクが管理すると告げていた。当然、ふぶきの財布は今ボクが持っているのである。
 ふぶきはそんな事もすっかり忘れてとうもろこしを注文しているのであり、ボクが行かないと金が払えるわけがない。
 案の定、ふぶきは体中をまさぐり財布を探し始め首を傾げていたので、ボクはふぶきと屋台の間に割って入るようにしてお金を払った。
「あ、そうだった。エッちゃんが持ってるんだもんね」
 と言ってふぶきが笑う。
 ボクがお金を払い、ふぶきはとうもろこしを受け取った。
 朝10時、おそらくは朝食も食べてきただろうによく焼きとうもろこしが食べられるものだと感心していると、とうもろこしを咥えたままで、ふぶきが「ひふ!」と言った。
 そしてボクが何事か尋ねるよりも早くまた駆け出してしまう。
 その進路の先には散歩中なのだろう、犬を連れた老夫婦がいて、ふぶきの「ひふ」が犬の事なのだと気付いた。
 ふぶきは犬が好きだ。しかも大きいのほど好きらしい。老夫婦が連れているのはまさに大型犬だった。
 ふぶきはとうもろこしをかじりながら散歩している犬と並ぶようにして歩き始める。
 飼い主の老夫婦がどうやら優しい人間だったのは幸いだった。そんなふぶきを微笑ましそうに見てくれていた。うっかり変な人間だと、誰だコイツ、なんていう冷たい視線を浴びせられかねない。
 ふぶきに追い着いたボクは、歩いている犬がしきりに鼻をひく付かせているのを見てふぶきに言った。
「ふぶき、とりあえずどこかでとうもころしを食べちゃった方がいいよ」
 やたらと香ばしい醤油付きのとうもろこしの匂いは、犬には煩わしいのではないかと思ったのだ。
 ふぶきは寂しそうにボクを見る。
「だって、そしたら犬がどっか行っちゃうもん……」
 そう言われても、と思ったが、ボク達のやり取りを見ていた老夫婦は、にこりと微笑んで、少し先にあるお寺の方を指した。
「だったらあそこの境内にお茶屋さんがあるから、そこで食べたらいいんじゃないかしら。私達もいつもあそこで休むの」
「犬も一緒に?」
 ふぶきの問いに老夫婦が頷く。ふぶきが嬉しそうに笑う。
 老夫婦は2人がお茶を頼み、ボクとふぶきは2人で1つのお茶を頼んだ。潮風に寒さを感じていた身としては、温かいお茶は何よりありがたかった。
 老夫婦は本当に良い人で、椅子にも座らず犬の前にしゃがみ込むふぶきを咎めずにいてくれた。人慣れした犬なのだろう。ふぶきが頭を撫でてもおとなしくしている。
 ボクは老夫婦と何気ない会話をして過ごした。おそらくは結婚して何十年という時を経ているだろう2人は、お互いの存在を本当に当然のように受け止めていて、何をするにも嫌みがなかった。お茶を手渡したり、少しこぼしてしまったお茶を吹くためにハンカチを差し出したり、そういうどうでもいい動作のひとつひとつが、言葉がおかしいかもしれないが、とても洗練されている感じだった。
 とても血の繋がりのない他人同士とは思えないくらいに。
「かわいい彼女さんね」
 と夫人の方が言った。
 ボクは小さく頷いた。それが聞こえたらしいふぶきは、夫人を振り返って、
「エッちゃんもかっこいいよ」
 と告げる。
 老夫婦はそれを聞いて笑った。
 顔に刻まれた皺が一層深くなるその様に、老醜という言葉はまるで似合わなかった。ボクもこんなふうに年を取りたいと思う。
 ひとしきり休んだ後で老夫婦は散歩を再開し、ボク達はそれを見送った。
 そして海に向けて歩き出した。
 温かいお茶を飲んだおかげで、感じていた寒さはいくらか和らいでいた。
 海の方に近付くにつれ、人の気は少なくなっていく。当然の話だ。泳いだりするような時期でもない。
 仄かだった潮の香りは次第に強くなって、視界に海が広がる頃には肌が少しベタついていた。
「このニオイ、好きなんだ」
 ふぶきは目を細めて鼻を鳴らす。
 ボクは海辺の町の怪奇を扱った「インスマウスの影」を読んだばかりだったので、何となくそう思えなかった。
 滑りやすい石段を注意深く降り、砂浜に足を埋めながら歩くと、海に来たという実感が一層増してくる。
 ふぶきの望み通り海に来たはいいものの、こんな時節の海に何があるわけでもない。
 ボクはふぶきに尋ねていた。
「なんで海に来たかったの?」
 砂浜の貝殻をほじくり返していたふぶきはボクを振り返って、
「えへえ」
 と、はにかんだ。ボクは首を傾げた。
 ふぶきは海の方に目をやり、しばらく黙っていたが、やがてボクの方を見ぬまま喋り始めた。
「お父さんとお母さんがね、初めてデートしたのが、海だったんだって」
 ボクはふぶきと並ぶようにしゃがみ込んで同じように海の方を見つめた。
 波は穏やかだった。
「だからエッちゃんとも海に来たかったの」
 ボクはふぶきを見なかった。何だか、今ふぶきを見るのが怖い気がした。インスマウス的な怖さじゃなくて、もっと別の、ふぶきに対する気持ちが急激に変化してしまうんじゃないかという怖さだった。
 去年の冬以来、ボクは少しずつ、少しずつだけれどふぶきに「女」を意識し始めていた。
 手をつなぎたいとか、キスをしたいとか、もっと先のあれこれとかについて、うっかり妄想してしまうくらいには。
 それは健全と言えば健全だと思う。
 普通はそういうもんだとも思う。
 でもボクはそういう普通の感覚が、ふぶきを傷付けてしまうのではないかと恐れている。
 普通の男女が行うような事を行う事で、ふぶきがふぶきでなくなってしまうのではないかと恐れている。
「……エッちゃん?」
 黙り込んでいたボクの顔を、ふぶきが覗き込んできた。ボクは思わず仰け反ってしまい、バランスを崩して砂浜に倒れた。
「わっ」
 ふぶきが声を上げる。
 そして、ふぶきが悪いわけじゃないのに、
「ごめんねエッちゃん……大丈夫?」
 と言った。
「大丈夫」
 とボクは答えた。
「ふぶきが悪いんじゃないよ。バランス崩しただけ」
 ボクが立ち上がると、ふぶきはボクの背中に回り込んだ。
「砂付いちゃったね」
 言いながらボクの背中を叩き始めたふぶきは、急にその手を止めて、小さく笑った。
「……なに?」
 思わず振り返ると、ふぶきはまた小さく笑った。
「ハート」
「ハート?」
「エッちゃんのお尻にハートができてる」
 何の事か分からず、身体を捩ると、ズボンに付いた砂がちょうどハートのような形になっているのが見えた。
「んふふ」
 ふぶきはまた笑った。
 ボクがハート型の砂を落とそうとお尻の方に手を回すと、ふぶきがその手を止める。
「落としちゃうの?」
「……駄目なの?」
 ボクが聞くと、ふぶきは「むむ」と唸る。
 どうもあまりよろしくはないようだと思い、ボクは諦めた。
「いいよ。落とさないよ」
「んふふ」
「でもそのうち落ちちゃうよ?」
「それでもいいの。んふふ」
 やっぱり、ふぶきはよく分からない。
 それからしばらく海辺を歩き、また寺社の集まる駅前に戻ってから、バスの停留所のベンチに座り、2人で弁当を食べた。あまりうまくできたとは言い難い出来ではあったけれど、ふぶきは嬉しそうに食べていた。
 元々、ふぶきは割に何でもおいしいと言って食べるクチなのだ。
「結婚したら毎日エッちゃんが料理を作るといいよ」
 小さなハンバーグをもぐもぐしながらふぶきはそう言うのだが、それについては何とも答え難い。限りなく浮世離れしたふぶきと、限りなく生活感のある結婚という要素とが、ボクの頭の中でうまく結び付かなかった。
 いずれそういう事を真剣に考えなくてはいけない時が来るのだろうか。そもそもそんな事を考えなくてはならなくなる時期まで、ふぶきはふぶきのままいられるのだろうか。
 去年の冬からずっと考えているけれど、やっぱりそこのところの答えは出ない。

 弁当を食べ終えた後、ボク達は少しだけまた散歩をし、帰りの電車に乗った。
 デートと言うにはあまりに色気のない感じだったが、案外みんなそんなもんなのかもしれない。他の女の子と付き合った事があるわけでもなし、ボクはボクなりにふぶきとの付き合いを続けるしかないのだろう。
 車中でそんな事を考えているうちに不意に先日の弁当の事件を思い出し、ボクはふぶきに尋ねた。
「あのさ、ふぶきは最近、誰かに付き合ってとか言われた?」
 ボクの問いに、ふぶきは一度キョトンとした後で天井を見上げた。
「なんか、石田君にそんな事言われた気がする」
「石田?」
 思わず聞き返したボクに、ふぶきは首を傾げながら、
「石田君、どこに行きたかったんだろうね?」
 と言った。
 まあ当然石田はそんな意味で言ったのではないのだが、ふぶきにそれを説明するつもりもない。
「それがどうかした?」
 ふぶきは尋ねてきたが、ボクは肩を竦めて、
「何でもないよ」
 と言った。
「む。何か隠し事だな?」
「違うよ。ふぶきに隠し事なんかしない」
「本当に?」
「うん」
「ならいい!」
 それで納得するあたり、やっぱりふぶきだなあと思う。隠し事をしてるかしてないかで言えば、しているのだけれど、でもふぶきには知らなくていい事もあるのだ。
 各駅停車の電車はのんびりと進んで、いつしかふぶきはうとうとし始めていた。
 ボクは1人、石田かあ、と考えていた。
 ひょっとして、大崎ユウヒが好きな男と言うのが、石田なんだろうか。
 植松の情報が正しければ、そうなんだろう。
 そうなんだろうが、石田かあ、と思う。
 石田というのは、隣のクラスで、今は植松と同じクラスで、つまり大崎ユウヒと同じクラスの男だ。そして大崎ユウヒに「うるせえ」と言って、痴漢の噂を流された男でもある。
 石田が痴漢をしたという噂を流したのが誰なのか、そこについては確証はないけれど、タイミングやターゲットを考えればやっぱり大崎ユウヒなんじゃないかなと思う。
 そして大崎ユウヒが石田の事を好きなんだとしたらなんだか事態は複雑だ。
 ひょっとして、ひょっとしてだけれど、大崎ユウヒは石田の事を好きであるがゆえに石田の悪い噂を流した、なんて事があるのだろうか。
 そんな可能性について考えるのは、石田ってのが結構女子に人気のあるタイプの男だったからだ。
 けれど痴漢の噂が流れて以降、石田の人気はちょっと落ちた。あんまりキャーキャー言われなくなった感はある。
 石田を他の女に取られまいとして悪い噂を流して、石田の心を射止めようとして、でも石田はふぶきの事を好きでふぶきに告白して、しかもそれをアハハと笑えないくらいには落ち込んでいて、それに大崎ユウヒがムカついて、というフローチャートを頭で構築しかけてからボクは、面倒くせえ、と思ってそれきりその事について考えるのを止した。
 けれどまあそういう可能性もないわけではないなあ、と思った。
 別段相手がふぶきに限らず、人の考えている事なんて結局は分からないのだなとも思う。
 そういう意味じゃ他人なんてみんなインスマウスの住人みたいなもんだ。得体のしれない何かなのだ。
 けれどそれでも、理解しようとすれば真実に近いとところにまでは辿り着けるし、それを繰り返すうちに、考えるまでもなく相手の事を理解できたりするようになるんだろう。犬を連れたあの老夫婦のように、嫌みなく相手のために何かをしてあげたりできるようになるんだろう。
 今のボクはまだまだふぶきの考えている事が分からない。
 何故悲しむのか、何故嬉しいのか、そういう事が瞬時に理解できるわけじゃない。
 それでもいつか、ふぶきの事を迷う事もなく理解してあげられる日が来るのだろうか。
 そうなればいいのだけれど、と、そう思うくらいには、ボクはふぶきが好きだ。
 無邪気なふぶきが無邪気に言う「結婚」なんて事は考えられないが、ボクはやっぱりこのドードー鳥のような希少な存在をこれから先も見守り続けたいのだ。
 できるだけ近い場所で。
 うとうとするふぶきの手がボクに触れた。
 ボクは何となく息をひそめて、それから、そっ、とふぶきの手を、優しく握った。
「うむ」
 ふぶきが呻いたので、慌ててすぐさま手を離す。
 目を覚ましたのではないかと焦ったが、そんな事はなくて、ふぶきはボクにもたれかかてきてまた静かな寝息を立て始めた。
 少しだけドキドキしながら、ボクは、今はこのくらいの距離でいいや、と思った。
 窓の外、秋の海はもうすっかり遠くなっていて、それがほんの少しだけ寂しさを感じさせたけれど、ボクの手にはまだふぶきの体温が、微かに残っている。

(未発表短編)