ドードー鳥と秋の海(前編)

「お前ムカつくんだよ!」
 という罵声と共に桐島ふぶきが弁当の中身を顔にぶちまけられたその時、ボクは教室の一番後ろの席でラヴクラフトの短編集を読み耽っていたところだった。
 だからその事前に一体どのようなやり取りがあったのか、黙ったまま睨み合っていたのか、それとも二、三の口論を経てだったのかとか、そういう事については一切分からなかった。ボクは一度本を読み始めると周囲の物音や状況になど一切気が向かなくなってしまう。
 とは言え、大崎ユウヒの罵声はさすがにボクの読書への集中力すら打ち破る大きさだったので、ボクは何事かと思い、手早く本に栞を挟み込んで顔を上げたのだ。
 ふぶきが顔に弁当をぶちまけられたと分かったのは、まさにその直後である。
 しんと静まり返った教室の様子、皆の視線、座ったまま呆然とするふぶき、そしてそんなふぶきを見下ろす大崎ユウヒという構図から、弁当をぶちまけたのが大崎ユウヒである事もまず間違いはなかった。
 そして大崎ユウヒがぶちまけたのがふぶきの弁当であり、つまるところ今朝ボクがこしらえた弁当であった事も疑いようがなかった。
 弁当の隙間を埋めるために入れたピンク色のカマボコが、ふぶきの頬にぺったり貼り付いていたからだ。
 どうしたものか、とボクは思った。
 何故こんな状況になっているのか、まずその事が知りたかったが、あいにくボクの周囲に人がいない。ボクは溜め息を吐いて立ち上がり、立ち尽くすクラスメート達を押し退けるようにしてふぶきの方に向かった。
 ふぶきは依然、ぽかんと口を開けたままで凍り付いたように大崎ユウヒを見つめている。
「食べ物を粗末にするのはどうかと思うよ」
 大崎に言いながら、ボクは床に転がった弁当のおかずを拾っては同じように転がっていた弁当箱の中に放り込んだ。折角作ったのに食べられる事もなく埃まみれになったおかずを見ると少し寂しい。
 細かいものは無視して適当に散らばった弁当を片付けたボクは、ポケットからハンカチを出してふぶきの手を取った。
 ふぶきはそれでようやく我に返り、ボクを見て、
「エッちゃん……」
 と、蚊の鳴くような声で言った。
「顔と服、洗ってきな」
 ボクが言うと、ふぶきは頷きもせずふらりと立ち上がって教室を出て行く。その足取りはおぼつかなくて、生まれ立ての子山羊か何かを連想させた。
 ボクは再び散らかった弁当を片付ける作業を始めた。大崎ユウヒは自分の行動に興奮しているのか、少し息を荒げたままで依然そこに立ち尽くしていた。
「ずっとそこにいられるとさ、邪魔なんだけど。それとも君、手伝ってくれるわけ?」
 ボクが言うと、大崎ユウヒは一瞬、びくりと身体を震わせた後で教室から走り去った。
 それが、昼休み終了10分ほど前の出来事だ。
 ボクは弁当のおかずを拾い上げて雑巾を使って床やらふぶきの机やらを拭き、そうこうするうちにふらふらとふぶきが戻ってくる。
 ボクが椅子を下げてやると、ふぶきは崩れ落ちるようにその椅子に腰かけてまたあんぐりと口を開けたまま呆けていた。
 いつもそうなのだ。
 ふぶきには人の悪意というものが基本的に理解できない。だからそういう状況に直面するとパニックを起こしていつまでもボーッとしている。
 こんな状態のふぶきにあれこれ問うたところで何の応答も期待できないし、よしんばふぶきが平静を取り戻したとしても、そもそもふぶきに自分が何故そんな事をされたのかという事を理解はできないわけだから同じ事だ。
 ふぶきの髪や顔にまだ弁当のおかずがくっ付いたりしていないかをひとしきり確認した後で、ボクは自分の席に戻って本を開いた。
 そして誰に聞くのが一番話が早いかを考えていた。
 まあ、たぶんこのテの情報に一番敏いのは去年ふぶきと同じクラスだった植松だろう。今は大崎ユウヒと同じクラスのはずだから、その意味でも都合がいい。
 今日の授業が終わったら早速植松のところに行こう、そう決めてボクは本の方に集中した。
 ああ、それにしてもインスマウスの住人はおっかない連中ばかりだ。

 桐島ふぶきとボクの出会いは17年前、ボクが生まれ落ちたまさにその日、ふぶきも同じ病院で産声を上げて、互いに早産だったボク達は仲良く隣同士の保育器に入れられた、というそこからの付き合いだ。うちも近所で、幼稚園から小学校中学校、そして今の高校に至るまでずっと同じ。
「お前らホント仲いいな」
 なんて言われつつも、別にただの幼馴染みだし、と答えたりして、腐れ縁だよなあ、なんて思ってたところに、
「え? わたしはずっとエッちゃんと付き合ってるよ?」
 と、ふぶきに言われたのが去年の冬だ。
 あの時は正直、たまげた。
 ボクはふぶきとそんな話をした事もなかったし、そんな自覚もなかったから。
 けれどふぶきは幼稚園の時にボクが言った、
「ボクがふぶきに寂しい思いはさせない」
 という言葉をずっとずっと憶えていて(言った当の本人であるボクすら忘れていたのに)、その時から今に至るまでボクと付き合っていると思っていたという、そういう話だった。
 鳥としての進化を拒否してしまって鈍重になり、やがて絶滅してしまったドードー鳥のごとく、ふぶきは幼稚園の頃の純真さを高校生になる今まで失わずに成長してしまっているのだなあ、と当時のボクは思ったものだ。

 さて、そんなふぶきがどうして弁当をぶちまけられるような憂き目に遭ったのか、という点である。問題は。
 何せふぶきに弁当をブチまけてきたのは大崎ユウヒなのだ。
 大崎ユウヒという人間が、わりといかにも女子らしい、いつも仲の良い数人の女子グループで行動するようなタイプだという事はたまに隣のクラスに足を運んだ時に目にして分かっていたし、そのグループの中でわりにリーダー格の、ちょっと自尊心の強いタイプであるという事も知っていた。
 そして植松によれば、「あいつ超おっかねえ」という事も。
 何でも、以前とある男子生徒が休憩時間にかしましく雑談をしていた大崎ユウヒらに、
「お前らうるせえ」
 と注意を促した事があったらしい。
 大崎ユウヒらはその生徒に対しその場では特に反論もせずおとなしく声をひそめたそうだが、翌日から、件の男子生徒の妙な噂が流れ始めた。電車の中で痴漢をしていた、というのだ。
 無論、証拠なんてない。
 ないのだが、いかにも「誰かが見ました」風な詳細な内容であり、しかもそれが日に日にいろんな人間に伝播していくものだから、ついには生活指導の教師が直々に男子生徒を呼び出す始末、男子生徒はそれを必死に否定したが、
「じゃあ根も葉もないそんな噂を誰が流すんだ? 仮にでっちあげだとしたってそんな噂を流されるお前の方にも問題があるんじゃないのか?」
 といった感じの説教をされたらしい。
 その教師は人が理不尽で一方的な悪意を他者に向けたり、その悪意に突き動かされて他者を貶めるといった可能性については考えが及ばなかったらしい。
「でもどう考えたって大崎ユウヒだよな、犯人」
 植松はそう言った。
 そして前述の「あいつ超おっかねえ」に繋がるわけだ。

 午後の授業が終わり放課後になると、ボクはすぐに席を立った。ふぶきは依然、口を開けたまま呆然としていた。このぶんだと立ち直るにはあと数十分は必要そうだった。
 隣のクラスに足を踏み入れると、植松がボクを待ちかねていたという様子で手招きをしている。
 耳が早いから、たぶん昼休みの大崎ユウヒの行動について、既に聞き及んでいるのだろう。そしてボクが事情を尋ねに来るのもお見通し、という事だ。
「アレだろ? ふぶきの事だろ?」
 空いていた植松の後ろの席に腰掛けると、何か尋ねるまでもなく植松から切り出してきた。話が早くて助かる。
「なんか、男絡みらしいよ」
 ボクが頷くと、植松は言った。相変わらずそのテの情報には敏い男だ。
「大崎の好きな奴がふぶきに告ったらしくてさ、でもふぶきがあんな調子だろ? 肩透かし食らって、断られたのかどうかもよく分からなくて参ってる、って話」
「ふうん」
 とボクは言った。
 なんだ、その程度の事なのか、と正直思った。
 中学時代にも似たような話はよくあったからだ。
 ふぶきは少しばかりエキセントリックな性格を抜きにすると大層、美人だ。下手なアイドルなんかよりも抜群に顔が整っている。スタイルだって悪くない。
 そんなふぶきに熱を上げる男が現れるのは、だから、そんなに珍しい事ではない。
 そしてそういう連中がふぶきに告白を試みる、なんて事も言わずもがな日常茶飯事なわけだ。
 ところがふぶきは、「僕と付き合って下さい」なんて言われたところで、「え? どこに?」と答えてしまうような奴だから、告白した連中も唖然呆然として、やがてふぶきへの恋心を収束させてしまう。
 実のところ植松もそんな「収束済」の1人で、中学時代は「ふぶきって、いいよなあァ。なんか小動物みたいで。俺、守ってあげたい」なんて言っていたくせに特攻玉砕を果たしてからは、エキセントリックなふぶきの発言、行動を見てはヒヒヒとほくそ笑む「ふぶきウォッチャー」と化しているのだった。
 それはさておき、ふぶきがそうやって男どもに告白されてはよく分からない理屈ではぐらかす、というのが他の女子には面白くないであろう事は想像に難くない。
 実際、中学の時にも大崎ユウヒのような女子グループが「なにあの子。ちょっとムカつかない?」といった目でふぶきを見ていたし、実際そういう事を口にしているのをうっかり聞いてしまった事がある。
 今回の件も結局はそれと同じだという事だ。植松の言が事実なら、だが。
「それで、その大崎ユウヒが好きな男って誰なの?」
 ボクが尋ねると、植松は首を振った。
「それがよく分かんねえんだよなあ……だいたいふぶきに告った連中の噂って、すぐに広まるじゃん? 告った方が、意味不明過ぎて誰かに話しちゃうからさ。でも最近そういう噂、聞かないだろ?」
 確かにそうだった。
 中学時代から、ふぶきに告白した連中はみんな首を傾げて、「俺にはあの女は扱えない」というような愚痴を漏らすようになるし、仮に本気の本気で告白を試みて玉砕して深く傷心したとしても、時間が経つと傷が癒えて、ちょっとした小噺でもするみたいに「実はさー、俺もふぶきに告った事あるんだよね」といったような話をするものなのだ。
 そういう人間が全てとは思えないが、そもそも難攻不落の要塞ふぶきに特攻を試みるのは、ふぶきと出会って間もない時期なら誰しも一度は通る通過儀礼みたいに認識されてるから、ふぶきに告白した事を恥と思い固く己の秘密にするという人間が少ないのは確かだ。
 となると、今回ふぶきに突撃した男は、相当真剣にふぶきの事を好きだという事が窺える。
 まあふぶきに告白したのが誰であるかという事は今回の件にはあまり関係ない気がしたので、ボクはそこで話を切って立ち上がった。
「何か分かったらまた教えてくれる?」
 ボクがそう言うと、植松は「お前も大変だな」と同情の言葉をかけてくれた。
 植松はボクをふぶきのお守りというか面倒見役というか、そんな感じに思っている節がある。と言うか、ボクとふぶきを知る人間のほぼ全てが、たぶん、そう思っている。
 ふぶきがあんな性格でなければ、きっとボク達は付き合ってるとか思われるのだろうけれど、幸か不幸か、そうはならないのが世の不思議だ。
 そして実際ボクとふぶきが付き合ってるというのも、もっと深遠な、不条理と言ってさえいいミステリーだった。
 誰に真実を話したところで信じなさそうだから、ボクはふぶきとの関係が去年の冬から変わった事を誰にも告げていない。
 もっとも、変わったと言ったってそれは文字通り言葉だけの事で、以前に比べてボクとふぶきが接する時間が飛躍的に上昇したわけでも、登下校中に手をつないだりするようになったわけでも、キスやその先の淫靡な行為をするようになったわけでもない。
 だからボク自身、本当にボクがふぶきと付き合っているのかどうかよく分かってはいないのだ。正直な話。
 教室に戻ると、ふぶきはまるでコマ送りのようなスピードで鞄に教科書類を詰め込んでいるところだった。
 そしてそのコマ送りも数秒おきに一時停止してしまう。
 近付いていくと、ふぶきは一時停止したままの体勢で、
「うう」
 と呻いた。
 さすがに今回の件は直接的に悪意をぶつけられたせいでダメージが大きいものらしい。
 見かねてボクは一時停止中のふぶきから教科書を奪い取り、素早く鞄に詰め込んでやった。
 ふぶきはボクを見上げて、
「エッちゃん……」
 と呟いた。目には涙が溜まっている。
「帰ろう」
 ボクが言うと、ふぶきは小さく頷いた。

ドードー鳥と秋の海(中編)

 とぼとぼと歩くふぶきに歩調を合わせるのはなかなか面倒だった。数歩ごとに立ち止まって、ボクの後を歩くふぶきを振り返り、ついてきているかを確認する。
 ふぶきは終始俯いていた。
「ちゃんと前を見ないと転んじゃうだろ?」
 そう言ってもふぶきは「うん」と言うだけで顔を上げようとはしない。
 ふぶきが何を考えているのかと言えば、きっと「どうして嫌われたんだろう」という事だろう。
 いつもそうだ。
 陰口を叩かれたり、或いは面と向かって罵倒されたりすると、ふぶきはいつもその疑問を口にする。
 ふぶきは驚く程に無垢で純真なのだ。子供だと言ってもいい。だから普通ボク達の年代の人間なら容易く想像できるような理屈が分からない事がある。
 男子生徒どもの告白に対して素っ頓狂な答えを返してしまうのも、結局はそういう事なのだ。
 と言っても、それはふぶきが男女の恋愛という概念を理解できない、という意味ではない。昔はボクもそう考えていたが、それは正しくはなかった。
 真実は、ふぶきはボクと付き合っていると昔から思っていたから、だ。
 そしてそれ故に、そんな自分に告白するような人間がいるなどとは理解できないのだ。彼氏がいる女に告白してくる男がいる、という事実を、ふぶきは理解できないのだ。
 他者の行動や思考を想像する時、人間はまず自分を基準にするものだ。自分ならこうする、自分ならこう考える、だからあの人もこう考えたはずだ、あの人もこう行動したはずだ、そうやって想像を膨らませて結論を導き出す。
 けれど大人になれば、それとは違う方法を見出していく。成長する過程で出会った様々な人間の言動、思考をサンプリングして蓄積していく事で、自分には理解し得ない、或いは自分では到底実行できないような行動思考をする人間についても想像を働かせる事ができるようになる。
 ボクが、ふぶきを疎ましく思う女子の存在を理解できるのはそういう事だ。ボク自身はふぶきを疎ましくは思わないし、仮に自分の好きな女が他の男に告白しようが振られようが、相手の男に弁当をぶつけようとは思わない。
 けれどそういう感情を抱き、そういう行動に出る女がいるのは、分かる。
 今までにいくらでもそういう人間を見てきたからだ。
 けれど、ふぶきにはそれができない。
 ふぶきは常に自分を基準に他者を考える。純真で無垢で物を知らない、人を妬んだり憎んだりしないふぶきだから、他人に強い悪意をぶつける人間を理解できない。つまりはそういう事だ。
 そしていつも傷付く。
 ドードー鳥がその鈍重さゆえに絶滅してしまったように、ふぶきはその純真さゆえに深く傷付く事を余儀なくされる。
 それを防ぐのは、ともすれば簡単な事だ。
 ふぶきに人間の悪意を説けばいい。こういう悪い事を考える人もいるのだとか、こういう事を嫌う人間もいるのだとか、子供にしつけをするみたいに優しく、懇切丁寧に説明すれば、ふぶきだって根本的には馬鹿じゃない。理解はできるだろうと思う。
 けれどボクはそれをしない。
 ふぶきは今のふぶきだからこそふぶきなのだとボクは思う。
 仮にどこかの僻地でドードー鳥の生き残りが発見されたとして、やっぱり鈍重だから様々な動物に襲われて絶滅しかけているとして、そのドードー鳥を生き残らせるために大きな翼を与えたりしたら、どうだろう。
 飛ぶ事ができるようになったドードー鳥はドードー鳥じゃなくなるんじゃないだろうか。
 ふぶきもやっぱりそうなんじゃないかとボクは思う。
 男に告白されて、「悪いけど私、付き合ってる人いるの。ごめんなさい」と言うふぶきはふぶきじゃないし、「私が好きな人に気を持たせないで!」と言ってきた女に対し、「向こうが勝手に私を好きになってるだけでしょ? こっちだって迷惑なんだけど」と言うふぶきもやっぱりふぶきじゃない。
 名前とか見た目とか遺伝情報とかそんな物が何ひとつ変わってなくても、それはもうふぶきではない。少なくとも17年を共に過ごしてきたボクにとっては。
 だからボクはふぶきはこのままでいいと思う。そしてふぶきが傷付くのも仕方がないと思う。
 ただ、ふぶきが傷付いた時、少しでも早く立ち直れるようにはしてやりたい。傷付き過ぎたふぶきが、ひょっとしてふぶきではなくなる方向に進化しないとも限らないから。
「ふぶき」
 ふと思い付いて、ボクはふぶきの名を呼んだ。ふぶきは相変わらず俯いていた。
「次の日曜、一緒にどこか行こうか」
 ボクの言葉に、ふぶきはハッと顔を上げた。
 への字のようになっていた口元が、一瞬、ぐいっと上がり、そしてまたすぐにへの字に戻った。
 これまでボクはふぶきとどこかに出かけたり、いわゆる「デート」のようなものをした事がない。ふぶきとボクが付き合ってるという事になってから(ふぶきは昔からそう思っていたわけだが、少なくともボクがそう認識してからも)そうだ。ふぶきはそういう事を口に出して望まなかったし、ボクも何となく、今まで通りでいいかと思っていたからだ。その方がふぶきらしい気がして。
 だからふぶきが喜ぶかと思ってそう言ってみたのだが、どうもお気に召さなかったようだ。どうしたものか思案していると、ふぶきは申し訳なさそうに、
「行きたいけど……行けない……」
 と言った。
「予定でもあるの?」
 尋ねると、ふぶきは激しく首を横に振った。駄々をこねる子供の様な仕草だった。
「じゃあ、行きたいのなら、行こうよ」
 ふぶきが拒む理由が分からず再度そう告げると、ふぶきは、小さく「うう」と呻いた。
 ボクは溜め息を吐いた。ふぶきの思考回路は、17年の付き合いがあるボクでさえまだ完全には理解できないのだ。問い質すより他にない。
「理由を言ってくれないと分からないよ」
 ボクの言葉に、どういうわけかふぶきは涙をこぼし始め、ボクは心底慌てた。傍から見れば別れ話でもして女を泣かせているような光景にしか見えない。
 まるで知らない人間にそう思われるのはまだ良かった。だが今いる場所があまり良くない。ふぶきの家が近過ぎる。

 ふぶきの父親は、ふぶき以上のエキセントリックさを持つ、端的に言えば変人だ。近所のガキどもに据わった目で「殺すぞ」とか言ってしまうようなおっさんなのだ。そして彼はふぶきを溺愛している。うっかりこんなところをその親父に見られでもしたら、釘が何本も刺さったバットかバールのようなものでブン殴られかねない。
「な、なんで泣くの……」
 慌てて問うと、ふぶきは目を擦り擦りしながら、言葉を詰まらせつつこう言った。
「だっで……せっかくエッちゃんが、うぐ……作ってくでた、お弁当……うう、食べて、あげらでなかったんだもぬ……」
 その言葉の意味が、ボクにはよく分からなかった。
「……どういう事?」
 ふぶきは相も変わらず涙と鼻水でぐずつきながら、
「それなのに……エッちゃんに、遊びにつれて、行ったりしてもらったら、ぐう……悪いもん……」
 と言った。
 それでようやくふぶきの思考が想像できた。
 自分は悪い子だからお出かけはできない。
 という事だ。たぶん。理不尽に弁当をブチまけられてどうしてそんな理屈に辿り着けるのかは甚だ疑問だったが、そのあたりにはあの奇矯な親父が関係しているのかもしれない。自分で食事をひっくり返しておいて、「俺に食事をひっくり返させるような悪い子は外に連れて行かん!」くらいの事は言いそうな親父だからだ。
 オイオイ泣くふぶきを、ボクは軽く撫でてやった。小刻みに頭を震わせているふぶきはまるで雨に濡れた小動物のようだった。
「それは、気にしないでいいよ」
 とりあえず、ボクはそう口にする事しかできなかった。
 ひょっとするとふぶきが弁当事件以降始終落ち込んでいたのは、大崎ユウヒの悪意について考えていたのではなく、ボクの弁当をふいにしてしまったからなのだろうか? 自分がどうして嫌われたのだろうという悩みを差し置いて、ボクが作った弁当を食べられなかった事の方が、ふぶきにとっては重大な悩みであったのだろうか?
 ボクは何となく申し訳ない気持ちになった。
 確かにふぶきに弁当を持たせてやったのは事実だ。けれどそれは別にふぶきのために作ったわけじゃない。
 友人と旅行に出かけた母親の代わりに、ボクが弁当を作らなくてはいけなかったのだ。母は父にいつも弁当を持たせていたからだ。
 普通の家ならそんなもの小遣い銭を渡して外食させればいいだろうって話なのだろうが、うちの父親は昔ギャンブルにはまっていた事があって、そんな父に小遣いを渡すなどもっての外、というのが我が家の鉄の掟である。
 だから母親のいない間の食費は一切ボクが管理していて、そのせいで父親に弁当を作るのもボクの役目になった。うちの父親は料理なんかできやしない。
 無論、ボクだって別段料理は得意じゃない。家庭科でちょっとやった事があるぐらいだ。
 だからうっかり量を多く作り過ぎて、余らせるのも勿体ないから予定より1つ多く弁当ができてしまった。
 ふぶきに渡したのはその余りの弁当なのだ。
 そんな「ついで」の弁当について、ふぶきは真剣に涙を流しているのであり、流石のボクも罪悪を感じずにはおれない。
 まるでボクがふぶきを泣かせてしまったような錯覚すら起こる。
 困り果てて、ボクはふぶきを撫でながらあれこれ考えた。そして言った。
「じゃあ日曜日出かける時はもう1回お弁当、作るよ。それを食べてくれたらいい」
 その言葉に、ふぶきは身体を硬直させ、おずおずとボクを見上げた。
「……そうしたら、エッちゃん、怒らない?」
 そもそも怒っていないのだから今イチ話が噛み合っていない気もしたが、議論しても詮ないのでボクは頷いた。
「怒らないよ」
 ふぶきは涙と鼻水をゴシゴシ袖で拭いて、
「いひ」
 と笑った。
 まったく扱いにくい。
 けれどそんなふぶきを愛しく思う気持ちがあるのも事実だった。
 再び歩き始めながら、ボクは日曜日にどこに出かけるかをふぶきに尋ねた。
 ふぶきはさして迷う様子もなくそれに答えた。
「うみ!」
 それで行き先が決まった。

ドードー鳥と秋の海(後編)

 夏ももはや過ぎて肌寒くすらなっている今の時期にどうして海に行きたいなんて言い出したのか、ボクには理解できなかった。けれどまあ、ふぶきが喜ぶのならそれでいいかと思って承諾したのだ。
 日曜日が来て、海からほど近い駅で電車から降り立った時、ボクはそんな自分に強く後悔の念を覚えた。
 潮風がびゅーびゅー吹いて、ボクが着てきた程度の服装では寒さに歯が震える程だった。
 ふぶきは名前の通り寒さに強いところがあって、まるで堪えている様子もない。それどころか「風が魚のニオイ!」と言って駆け出すような始末だった。
 想像はしていたけれど、あまりデートっぽくはないな、と思った。
 どちらかと言うと、小学生ぐらいの親戚の女の子を遊びに連れて行ってやっている、という感覚の方が近い。
 ボク達が訪れたのは、海が近くて寺社仏閣もいくつかある観光地で、駅前から続く道は参拝路にあたり、ちょうど何かの催事の日だったのか、その参拝路にちらほらと屋台のようなものが出ていた。
 目ざとくそれを見付けたふぶきは、
「エッちゃんとうもろこし!」
 と言って一目散にそちらに向かい、ボクの意見も聞かぬままで、「とうもろこし下さい」と注文を始めた。
 慌ててボクもふぶきの方に駆けた。この「お出かけ」の間、ボクはふぶきが財布を落としたりしたら大変だと思い、電車に乗る前に財布はボクが管理すると告げていた。当然、ふぶきの財布は今ボクが持っているのである。
 ふぶきはそんな事もすっかり忘れてとうもろこしを注文しているのであり、ボクが行かないと金が払えるわけがない。
 案の定、ふぶきは体中をまさぐり財布を探し始め首を傾げていたので、ボクはふぶきと屋台の間に割って入るようにしてお金を払った。
「あ、そうだった。エッちゃんが持ってるんだもんね」
 と言ってふぶきが笑う。
 ボクがお金を払い、ふぶきはとうもろこしを受け取った。
 朝10時、おそらくは朝食も食べてきただろうによく焼きとうもろこしが食べられるものだと感心していると、とうもろこしを咥えたままで、ふぶきが「ひふ!」と言った。
 そしてボクが何事か尋ねるよりも早くまた駆け出してしまう。
 その進路の先には散歩中なのだろう、犬を連れた老夫婦がいて、ふぶきの「ひふ」が犬の事なのだと気付いた。
 ふぶきは犬が好きだ。しかも大きいのほど好きらしい。老夫婦が連れているのはまさに大型犬だった。
 ふぶきはとうもろこしをかじりながら散歩している犬と並ぶようにして歩き始める。
 飼い主の老夫婦がどうやら優しい人間だったのは幸いだった。そんなふぶきを微笑ましそうに見てくれていた。うっかり変な人間だと、誰だコイツ、なんていう冷たい視線を浴びせられかねない。
 ふぶきに追い着いたボクは、歩いている犬がしきりに鼻をひく付かせているのを見てふぶきに言った。
「ふぶき、とりあえずどこかでとうもころしを食べちゃった方がいいよ」
 やたらと香ばしい醤油付きのとうもろこしの匂いは、犬には煩わしいのではないかと思ったのだ。
 ふぶきは寂しそうにボクを見る。
「だって、そしたら犬がどっか行っちゃうもん……」
 そう言われても、と思ったが、ボク達のやり取りを見ていた老夫婦は、にこりと微笑んで、少し先にあるお寺の方を指した。
「だったらあそこの境内にお茶屋さんがあるから、そこで食べたらいいんじゃないかしら。私達もいつもあそこで休むの」
「犬も一緒に?」
 ふぶきの問いに老夫婦が頷く。ふぶきが嬉しそうに笑う。
 老夫婦は2人がお茶を頼み、ボクとふぶきは2人で1つのお茶を頼んだ。潮風に寒さを感じていた身としては、温かいお茶は何よりありがたかった。
 老夫婦は本当に良い人で、椅子にも座らず犬の前にしゃがみ込むふぶきを咎めずにいてくれた。人慣れした犬なのだろう。ふぶきが頭を撫でてもおとなしくしている。
 ボクは老夫婦と何気ない会話をして過ごした。おそらくは結婚して何十年という時を経ているだろう2人は、お互いの存在を本当に当然のように受け止めていて、何をするにも嫌みがなかった。お茶を手渡したり、少しこぼしてしまったお茶を吹くためにハンカチを差し出したり、そういうどうでもいい動作のひとつひとつが、言葉がおかしいかもしれないが、とても洗練されている感じだった。
 とても血の繋がりのない他人同士とは思えないくらいに。
「かわいい彼女さんね」
 と夫人の方が言った。
 ボクは小さく頷いた。それが聞こえたらしいふぶきは、夫人を振り返って、
「エッちゃんもかっこいいよ」
 と告げる。
 老夫婦はそれを聞いて笑った。
 顔に刻まれた皺が一層深くなるその様に、老醜という言葉はまるで似合わなかった。ボクもこんなふうに年を取りたいと思う。
 ひとしきり休んだ後で老夫婦は散歩を再開し、ボク達はそれを見送った。
 そして海に向けて歩き出した。
 温かいお茶を飲んだおかげで、感じていた寒さはいくらか和らいでいた。
 海の方に近付くにつれ、人の気は少なくなっていく。当然の話だ。泳いだりするような時期でもない。
 仄かだった潮の香りは次第に強くなって、視界に海が広がる頃には肌が少しベタついていた。
「このニオイ、好きなんだ」
 ふぶきは目を細めて鼻を鳴らす。
 ボクは海辺の町の怪奇を扱った「インスマウスの影」を読んだばかりだったので、何となくそう思えなかった。
 滑りやすい石段を注意深く降り、砂浜に足を埋めながら歩くと、海に来たという実感が一層増してくる。
 ふぶきの望み通り海に来たはいいものの、こんな時節の海に何があるわけでもない。
 ボクはふぶきに尋ねていた。
「なんで海に来たかったの?」
 砂浜の貝殻をほじくり返していたふぶきはボクを振り返って、
「えへえ」
 と、はにかんだ。ボクは首を傾げた。
 ふぶきは海の方に目をやり、しばらく黙っていたが、やがてボクの方を見ぬまま喋り始めた。
「お父さんとお母さんがね、初めてデートしたのが、海だったんだって」
 ボクはふぶきと並ぶようにしゃがみ込んで同じように海の方を見つめた。
 波は穏やかだった。
「だからエッちゃんとも海に来たかったの」
 ボクはふぶきを見なかった。何だか、今ふぶきを見るのが怖い気がした。インスマウス的な怖さじゃなくて、もっと別の、ふぶきに対する気持ちが急激に変化してしまうんじゃないかという怖さだった。
 去年の冬以来、ボクは少しずつ、少しずつだけれどふぶきに「女」を意識し始めていた。
 手をつなぎたいとか、キスをしたいとか、もっと先のあれこれとかについて、うっかり妄想してしまうくらいには。
 それは健全と言えば健全だと思う。
 普通はそういうもんだとも思う。
 でもボクはそういう普通の感覚が、ふぶきを傷付けてしまうのではないかと恐れている。
 普通の男女が行うような事を行う事で、ふぶきがふぶきでなくなってしまうのではないかと恐れている。
「……エッちゃん?」
 黙り込んでいたボクの顔を、ふぶきが覗き込んできた。ボクは思わず仰け反ってしまい、バランスを崩して砂浜に倒れた。
「わっ」
 ふぶきが声を上げる。
 そして、ふぶきが悪いわけじゃないのに、
「ごめんねエッちゃん……大丈夫?」
 と言った。
「大丈夫」
 とボクは答えた。
「ふぶきが悪いんじゃないよ。バランス崩しただけ」
 ボクが立ち上がると、ふぶきはボクの背中に回り込んだ。
「砂付いちゃったね」
 言いながらボクの背中を叩き始めたふぶきは、急にその手を止めて、小さく笑った。
「……なに?」
 思わず振り返ると、ふぶきはまた小さく笑った。
「ハート」
「ハート?」
「エッちゃんのお尻にハートができてる」
 何の事か分からず、身体を捩ると、ズボンに付いた砂がちょうどハートのような形になっているのが見えた。
「んふふ」
 ふぶきはまた笑った。
 ボクがハート型の砂を落とそうとお尻の方に手を回すと、ふぶきがその手を止める。
「落としちゃうの?」
「……駄目なの?」
 ボクが聞くと、ふぶきは「むむ」と唸る。
 どうもあまりよろしくはないようだと思い、ボクは諦めた。
「いいよ。落とさないよ」
「んふふ」
「でもそのうち落ちちゃうよ?」
「それでもいいの。んふふ」
 やっぱり、ふぶきはよく分からない。
 それからしばらく海辺を歩き、また寺社の集まる駅前に戻ってから、バスの停留所のベンチに座り、2人で弁当を食べた。あまりうまくできたとは言い難い出来ではあったけれど、ふぶきは嬉しそうに食べていた。
 元々、ふぶきは割に何でもおいしいと言って食べるクチなのだ。
「結婚したら毎日エッちゃんが料理を作るといいよ」
 小さなハンバーグをもぐもぐしながらふぶきはそう言うのだが、それについては何とも答え難い。限りなく浮世離れしたふぶきと、限りなく生活感のある結婚という要素とが、ボクの頭の中でうまく結び付かなかった。
 いずれそういう事を真剣に考えなくてはいけない時が来るのだろうか。そもそもそんな事を考えなくてはならなくなる時期まで、ふぶきはふぶきのままいられるのだろうか。
 去年の冬からずっと考えているけれど、やっぱりそこのところの答えは出ない。

 弁当を食べ終えた後、ボク達は少しだけまた散歩をし、帰りの電車に乗った。
 デートと言うにはあまりに色気のない感じだったが、案外みんなそんなもんなのかもしれない。他の女の子と付き合った事があるわけでもなし、ボクはボクなりにふぶきとの付き合いを続けるしかないのだろう。
 車中でそんな事を考えているうちに不意に先日の弁当の事件を思い出し、ボクはふぶきに尋ねた。
「あのさ、ふぶきは最近、誰かに付き合ってとか言われた?」
 ボクの問いに、ふぶきは一度キョトンとした後で天井を見上げた。
「なんか、石田君にそんな事言われた気がする」
「石田?」
 思わず聞き返したボクに、ふぶきは首を傾げながら、
「石田君、どこに行きたかったんだろうね?」
 と言った。
 まあ当然石田はそんな意味で言ったのではないのだが、ふぶきにそれを説明するつもりもない。
「それがどうかした?」
 ふぶきは尋ねてきたが、ボクは肩を竦めて、
「何でもないよ」
 と言った。
「む。何か隠し事だな?」
「違うよ。ふぶきに隠し事なんかしない」
「本当に?」
「うん」
「ならいい!」
 それで納得するあたり、やっぱりふぶきだなあと思う。隠し事をしてるかしてないかで言えば、しているのだけれど、でもふぶきには知らなくていい事もあるのだ。
 各駅停車の電車はのんびりと進んで、いつしかふぶきはうとうとし始めていた。
 ボクは1人、石田かあ、と考えていた。
 ひょっとして、大崎ユウヒが好きな男と言うのが、石田なんだろうか。
 植松の情報が正しければ、そうなんだろう。
 そうなんだろうが、石田かあ、と思う。
 石田というのは、隣のクラスで、今は植松と同じクラスで、つまり大崎ユウヒと同じクラスの男だ。そして大崎ユウヒに「うるせえ」と言って、痴漢の噂を流された男でもある。
 石田が痴漢をしたという噂を流したのが誰なのか、そこについては確証はないけれど、タイミングやターゲットを考えればやっぱり大崎ユウヒなんじゃないかなと思う。
 そして大崎ユウヒが石田の事を好きなんだとしたらなんだか事態は複雑だ。
 ひょっとして、ひょっとしてだけれど、大崎ユウヒは石田の事を好きであるがゆえに石田の悪い噂を流した、なんて事があるのだろうか。
 そんな可能性について考えるのは、石田ってのが結構女子に人気のあるタイプの男だったからだ。
 けれど痴漢の噂が流れて以降、石田の人気はちょっと落ちた。あんまりキャーキャー言われなくなった感はある。
 石田を他の女に取られまいとして悪い噂を流して、石田の心を射止めようとして、でも石田はふぶきの事を好きでふぶきに告白して、しかもそれをアハハと笑えないくらいには落ち込んでいて、それに大崎ユウヒがムカついて、というフローチャートを頭で構築しかけてからボクは、面倒くせえ、と思ってそれきりその事について考えるのを止した。
 けれどまあそういう可能性もないわけではないなあ、と思った。
 別段相手がふぶきに限らず、人の考えている事なんて結局は分からないのだなとも思う。
 そういう意味じゃ他人なんてみんなインスマウスの住人みたいなもんだ。得体のしれない何かなのだ。
 けれどそれでも、理解しようとすれば真実に近いとところにまでは辿り着けるし、それを繰り返すうちに、考えるまでもなく相手の事を理解できたりするようになるんだろう。犬を連れたあの老夫婦のように、嫌みなく相手のために何かをしてあげたりできるようになるんだろう。
 今のボクはまだまだふぶきの考えている事が分からない。
 何故悲しむのか、何故嬉しいのか、そういう事が瞬時に理解できるわけじゃない。
 それでもいつか、ふぶきの事を迷う事もなく理解してあげられる日が来るのだろうか。
 そうなればいいのだけれど、と、そう思うくらいには、ボクはふぶきが好きだ。
 無邪気なふぶきが無邪気に言う「結婚」なんて事は考えられないが、ボクはやっぱりこのドードー鳥のような希少な存在をこれから先も見守り続けたいのだ。
 できるだけ近い場所で。
 うとうとするふぶきの手がボクに触れた。
 ボクは何となく息をひそめて、それから、そっ、とふぶきの手を、優しく握った。
「うむ」
 ふぶきが呻いたので、慌ててすぐさま手を離す。
 目を覚ましたのではないかと焦ったが、そんな事はなくて、ふぶきはボクにもたれかかてきてまた静かな寝息を立て始めた。
 少しだけドキドキしながら、ボクは、今はこのくらいの距離でいいや、と思った。
 窓の外、秋の海はもうすっかり遠くなっていて、それがほんの少しだけ寂しさを感じさせたけれど、ボクの手にはまだふぶきの体温が、微かに残っている。

(未発表短編)

ドードー鳥と冬の空(後編)

 そんな事を考えているうちに気が付けば2学期が終わって冬休みになって、もうすぐ年が明けるなあ、誕生日が来ちまうなあ、などと考えていると、階下の母親に呼び付けられて、何かと思いきや、ふぶきから電話だという。電話。ふぶきから。今までそんな事、一度もなかったってのに。

「今からうちにおいでよー」

 などと言う。ボクは戸惑いつつ、

「いきなり何だい。何の用?」

 と問うた。

「えーと。まあ、うん。電話じゃ言いにくいなあ。とりあえず、うちに来てくれないかなあ。駄目?」

 なんて。急に言われても。困る。何でふぶきのうちに行かなくてはならないのだ。あの素っ頓狂な親父の住む家に行くなんて。とは思ったが、結構切羽詰った感じのふぶきの声色に断る事もできず、ボクは、

「ああ、うん。分かった。行くよ」

 などと答えている。まあ予定もないし、いいか。暇だし。それにちょっと興味がないわけじゃなかったのだ。あの親父が住んでる家に。ふぶきの家に。

 という感じで自分に言い聞かせて頑張って前向きに考えながら寒い中、自転車を漕いでふぶきの家に行くと、薄っぺらな生地の服を着て当のふぶきが玄関先に立っている。

「お」

 ボクを見るなり、さっ、と手を挙げたふぶきは、嬉しそうに2度、ふわん、と飛び上がって、

「早いね。エッちゃん。さすがだね」

 などと言われて、ボクは自転車をその場に停めながら、

「そう? 結構のんびり来たよ」

 と答えた。

「へへへ」

 ふぶきが笑う。

「何だよ」

「へへへ」

 笑ってばかりで言葉を発しないふぶきに誘われて家の中、冬休みでボクらは休みだが平日だからオトナは働いてるはずなのに、玄関先には明らかに男の物と思われる靴が並んでおり、あれ? ひょっとして親父がいるのか、やっぱ。などと思う。好奇心はあったがやっぱり親父いるのは微妙だなあ、と思いつつ、

「どぞどぞ」

 とか言われて、ふぶきに案内されたのが居間っぽい部屋で、そこにコタツでぬくぬくしながら蜜柑を食っている親父が案の定いるのだった。何でまたこの部屋に案内するのだ。しかも、「お父さーん、エッちゃん来たよー」って、いきなり紹介めいた事をされて、「まま、座って座って」と促されて、ちょっとリラックスしていた風情の親父は急に居住まい正し始めて、何だ、これは。親父と面談か。いきなり。何のためだ。何目的だ。くそ。と、ボクの頭は混乱しまくって、「あ、ども」っていう声も上ずってしまって親父も困ったように会釈する。

「あ、これは、これは」

 と呟く親父は噂に聞いていた割にはとても大人しそうな普通の気弱そうなおっさんで、ちょっと拍子抜けした。一、二度、遠方から見た事のある親父は、顔を真っ赤にして小さな子供に怒鳴り散らしていたものだが、まるで別人である。

「じゃ、ちょっとコーヒー淹れてくるね」

 ってふぶきは言うし、ボクはわけも分からずただ座って親父と目が合うのも嫌だから微妙に顔を逸らしつついたら、親父の方が、

「今日は、寒いね」

 とか言う。いかにも世間話、って感じの話題だ。

「あ、そうですね」

「寒いとふぶきの奴は喜ぶんだが、年を取るとやっぱり厳しいもんだね……関節が痛くなるなんて、若い頃には想像も付かなかったけどね」

「はあ」

 一体何でこんな会話をしなくちゃならんのだ、と思いつつ適当に会話を合わせながら、この人いきなりブチ切れて暴れたりしないのだろうか、と少し不安だった。それくらい、今自分の目の前にいるふぶきの親父はイメージとは食い違っていた。

「君は、寒いのは好きかい?」

 問われて、どちらかと言えば嫌いなのだが、この場合どう答えたらこの人の機嫌を損ねないだろうか、などとそんな事さえ考えてしまう始末、結局悩みに悩んで、

「あ、ボクは別に。好きでも嫌いでもないと言うか。四季折々、その場その場を楽しむと言うか、ねえ。そんな感じで」

 とか適当に答えると、親父はうんうん頷いて、

「うん、うん。そうかい。いい事だ」

 と妙に納得してくれた様子でよかった。

 そのうちにふぶきがコーヒーを運んで来て、ボクの隣にもぞもぞと座って、

「へへへ」

 と笑う。何か相談があるんじゃないのか。それにしたってこの場で相談されてもボクも困るが、これはあくまで親に対する挨拶であってこの後、ふぶきの部屋に行ったりするんだよな? ん? 違うの? どうなの? という不安は募るが口に出してふぶきに問うわけにもいかず、ボクもふぶきに倣って、

「へへへ」

 と愛想笑い浮かべて数分過ぎる。何だこれ。

「で? 2人の付き合いは何年くらいだっけね?」

 と親父は唐突に言った。

「は?」

「うん、だから、ふぶきと君が」

「はあ、付き合いと言えば長いですが。幼稚園の頃からですし」

「いや、そういう意味じゃなくてね」

 という意味の分からないやり取りをしているうちにふぶきが、はは、と笑って、

「そうじゃないよエッちゃん。わたしとエッちゃんがいつから付き合ってるかって事だよ」

 などと言うのである。ますます意味が分からない。

「付き合ってるって、何? それは人としての付き合い云々じゃなくて男女の付き合い的なそれの事かな?」

「それの事だよ」

 と即答するふぶきに上昇志向だったボクの混乱係数は頂点に達して、漫画だったら頭から湯気が出てもおかしくないような状況だったと思う。正直。

 ふむ。

 しかし、だ。ここは冷静に考えてみようじゃないか、ボクよ。ふぶきの奇矯な発言には幾分慣れてきたボクよ。これくらいで慌てたりはしないよな。うん。慌てない。慌てずによく考えてみる。ボクはふぶきと男女の付き合いになったつもりはからっきしない。これっぱかりもない。だが果たしてふぶきの言葉から察する限りではふぶきはそうだと思っているようだ。たぶん。そしてその事を親父に話しているようだ。それでもってよく分からんが彼氏として紹介されてるんじゃないだろうか、この状況は。

「うーん」

 と唸りつつ、ボクは腕を組む。

 この場合、正直に言った方がいいのか? そんなつもりはござんせん、とはっきり意思表示した方がいいのか? しかし正直言うとそれは避けたい。何せ子供に殺すぞとか言う親父だ。いや、ボクは娘さんとそんな関係だなんて、はは、娘さんの勘違いですよ、などと話そうものなら本当に冗談抜きで殺されかねないではないか。しかしここで否定しておかないとそれはそれでふぶきを受け入れてしまう事になるではないのか。いいのか。それで。人生この方彼女とかできた事がないボクの初めての彼女がふぶきだなどというのはアリなのか? そりゃ美人だが。それは認める。それは認めるがどうなんだ。何でボクが彼氏みたいな話になってるんだ、そもそも。そんな勘違いさせるような発言したか? あるいはそんな行動があったか? ここ最近で? 分からん。分からん以上何とも言い難いが兎に角この状況が激しいピンチだという事だけは分かる。ああ、ドードー巡りだ。まったく。

「えー、うん、あの、まあ、何か、ね? 気付いたらこんな感じで、はは」

 結局、しどろもどろになりながらもボクはそう答えた。

「うん、うん」

 と頷く親父。ふぶきは相変わらずにこにこにこしているばかりで何かフォローしてくれるわけでもない。ボクはふぶきに恨みがましい視線を向けてみた。しかし、ふぶきはそれに気付く様子もなく笑みを浮かべたまま、

「へへ。わたし、エッちゃんがほんとに好きなんだ」

 などと言うのだった。好きって、そんな。予想だにしていなかった言葉にボクは顔が紅潮するのを感じる。ああ、何でそんなんで緊張してるんだ。ふぶきに好きって言われたくらいで、しかもこんなシチュエーションで、という感じでいくらか冷静になって落ち着いていたはずのボクの頭の中は再びぐちゃぐちゃのどろどろになって想像妄想疑念疑惑が浮かんでは消え浮かんでは消え、やがて溶け合うように入り混じり、ボクの思考はもはやいつものボクの思考ではなくなっている。

「ボクも、好きですよ。ふぶきの事」

 そう告げたボクの言葉に親父はうんうんと頷いて、

「よし、分かった。君なら安心だ。ふぶきをよろしく」

 とか言い出す始末、まったくわけが分からないがそんなこんなで親も認める公認の仲になってしまったのである。ふぶきと。

 そして脳内が混乱したままふぶきに手を引かれ家から送り出されて、

「ありがとねー、お父さんがどうしてもエッちゃんに会いたいって言うからー」
 などとふぶきに言われて、ボクはようやく我に返って、

「いや、ちょっと待て」

 とふぶきに言う。

「ほえ?」

「ほえ、じゃなくて。一体全体何でボクとふぶきが付き合ってる事になってるんだ?」

「え? 何で、って。だってわたしはずっとエッちゃんと付き合ってるよ?」

 と言ったふぶきは何やらくどくど話し始めた。それはボクとふぶきがまだ幼稚園にも通っていないような頃の話、母親のいないふぶきがボクに寂しい事を打ち明け、ボクがふぶきに、ボクが寂しい思いはさせない、と告げたという、話だけ聞けば微笑ましいエピソードであった。

「エッちゃんがああ言ってくれたから、わたしずっと寂しくなかったのに」

 ふぶきは当然のようにそう告げ、ふぶきの奇矯さには慣れっこになりつつあったボクもさすがに困惑せざるを得なかった。

「……そんな話、すっかり忘れてた」

 とボクは言った。正直言えば、話を聞いてなお、そんな事言ったっけ? という感じでうまく思い出せはしなかった。ただ、ボクはふぶきの妙なところで記憶力の良いところを知っていたし、何よりボクは確かに幼い頃ふぶきの事が好きだったのだ。まだふぶきの奇矯さに気付く前には。

「エッちゃん、ひどいよ……」

 ふぶきはそう言って瞳を潤ませて今にも泣きそうな風情で顔をしかめる。そんなやり取りをしていたのが桐島家の玄関先で、その時、唐突に玄関の扉が勢い良く開かれていたかと思うと、ふぶきの親父が扉の隙間から顔を突き出しボクを睨み始めたのだった。娘を泣かす者は許さんぞ、という決意に充ち充ちた視線だった。

「う。う」

 と肩を揺すり始めるふぶきの頭を撫でながら、ボクは必死でふぶきをなだめた。

「でもふぶきと付き合うのが嫌ってわけじゃないんだよ? 泣くなよ、頼むよ」

 親父はじっとこちらを見ている。ここでふぶきが完全に泣き出したら、あの親父はどうするのだろう。包丁や鋏を手にボクに飛び掛ってきたりするのだろうか。普通なら一笑に付すべきそんな考えも、しかしあの親父ならやりかねん、としか思えず、ボクは一層怖くなってしまう。

「泣くなよ。ふぶきが泣いてるの見るのはボクも悲しいから。ねえ」

 ボクの言葉にふぶきは上目遣いにボクを見上げ、

「だってエッちゃん、最近、冷たいんだもん。なんか。だからお父さんに相談したんだもん。でも家に来てくれたし好きって言ってくれたから安心したのにやっぱりひどいんだ。うう」

 などと言う。ははあ。思い返してみればこないだ隠し事があるとか言った折にふぶきはとても不服そうにしていたし、その上、あれだ。何で告白されても全部断るのだ、とか聞いちゃって、そんなのボクとふぶきが付き合ってるとするなら、まあ大変に失礼な質問ではある。

「うううう」

 と涙と鼻水垂らしながら唸るふぶき、ボクは背後の親父が一歩足を踏み出したのを音で感じて身を竦ませた。やばい。マジだ。あの親父は絶対に怒ってる。何をされるか分からん。と思ってふぶきの体を揺さぶる。

「だから。泣くなって。そんなの気のせいだ。ちょっと意地悪してみたかったんだ。ね? ボクだってそんな時もあるんだよ」

 ボクのその言葉に、ふぶきはピタリと泣き止み、ボクを見、

「……ホント?」

 と少し嬉しそうに言う。その顔は抜群に可愛くて、ふぶきをずっと知ってるボクでもちょっと、うっ、と息を呑む程だった。

「……うん」

「じゃあ、わたしの事、好き?」

「うん。好きだよ」

 そんな顔で尋ねられて、一体他にどんな答えの返しようがあるっていうんだ。
 そしてふぶきは完全に笑顔になる。

「いひ」

 というその笑い方も、いかにもふぶきらしいと言うか、何と言うか、少し変わっていて、ボクはふぶきの頭を撫でながら、考えようによってはこれは凄くラッキーな事なのかもしれないぞ、と考えたりしていた。ふぶきは美人だ。それは間違いない。喋らずにおとなしく座っていればそこらへんのアイドル並には可愛い。それは事実だ。そんなふぶきと付き合えるのだ。何の苦労もなく。多くの男達が特攻撃沈してきたこの難攻不落の天然美少女を、ボクのものにできたのだ。ただ幼馴染だというだけで。なんて前向きに考えようとしたが、やはりあれこれと不安は尽きないのも事実だった。満面の笑みを浮かべるふぶきの後ろに、まだ親父が睨んでいる。ボクは親父に愛想笑いを飛ばし、親父はそれを受けて訝しげな顔をしつつも扉の奥に消えていった。

「エッちゃん、好き」

 ふぶきはそう言って微笑み、ボクはふぶきの頭を2度撫でてからふぶきに手を振って家路に着いた。それから自分の部屋で眠った。ひどく疲れていて、起きているのが困難だったのだ。

 そんな事があった後、ふぶきとの関係が何か変わったかと言えばそれは否で、冬休み中だと言うのに、遊びに行こうという連絡もなくこちらから連絡する事もなく、そうこうするうちに誕生日がやってきて、同じ日に産まれたというボク達の共通点を互いに祝い合ったりなどもしなかった。以前に言われていたケーキをふぶきの届ける事さえしなかったし、それについて文句を言われたりもしない。一体、ふぶきの中で付き合うという関係がどのようなものなのかボクには分からないが、少なくとも今までの関係の中でさえふぶきはボクと付き合っていると思っていたようだから、今更デートしたりするのも妙な話に思える。プレゼントだってあげた事も貰った事もない。ボクとふぶきの関係は結局、何も変わらず今まで通りで、冬休みが明けてから学校でふぶきと会っても、昼休みに食事をしたりする以外では特に一緒にいるわけでもなく、本当に曖昧な関係のまま、ただ時間だけが過ぎていくばかりなのだった。

 ある時、登校途中に鉢合わせになってボク達は並んで学校に向かい、その途中、ふぶきはふと思いついたように、

「エッちゃんと結婚できるかなあ」

 と言った。ふぶきの奇言には慣れつつも、そこにボク自身が関わってくるとはあまり冷静でいられないボクは、思わず足を止め、むせて咳き込み、

「え? 結婚?」

 と問い返す。

「うん」

 よくそんな発想が出てくるものだ。結婚なんて。キスだってしてないってのに。

「さあ? 大人になったらできるんじゃないの?」

 ボクの投げやりな答えにふぶきは少し寂しそうに俯いて、

「エッちゃん、わたしと結婚したくない?」

 などと言う。

「まだよく分からないよ。結婚とか、そういうのは」

「そっか、そうだね」

「うん」

 それからボク達はまた歩き出した。歩きながら、ふぶきはボクの方を見ないままで、独り言のように呟いた。

「でも結婚できたら、新婚旅行はドードー巡りに行きたいな」

 ふぶきはどうやらとてもドードー鳥が気に入っているらしく、その愛くるしさについて、と言ったってそれはみんな想像の産物でしかないのだけれど、それを饒舌に語り、ボクはそれを聞きながらただ頷いていた。絶海の孤島の上、独自の進化を遂げていった、あのずんぐりとした体型の飛べない鳥が、一体何ゆえにふぶきをそこまで惹き付けるのかは分からないが、よくよく考えてみれば、ふぶきもドードー鳥も、どこか似たようなところがあるのかもしれないなあ、とふと思う。

 誰だってみんな年を取って、あれこれ考えて諦めたり妥協したり小賢しくなって、そうやってオトナになっていく。そんな中、ふぶきは幼稚園に通ってもいなかったあの頃、ボクがふぶきに寂しい思いはさせないと告げたというその言葉を無垢に信じ続けて疑わず、普通ならボクのその言葉が世間知らずな子供の無責任な発言だったと断じるところを、今になってなお、ボクの言葉を素直に受け止めたその瞬間の心さえ持ち続け、そしてボクとはその時からずっと恋人同士だと思っている。独自の進化を遂げた奇妙なドードー鳥のように、ふぶきはふぶきとして独自のオトナになり、そうして今、ボクの隣を歩いている。それがいい事なのか悪い事なのかは分からない。けれどドードー鳥はその奇矯さ故に見世物になったり、鈍重な故に人間やその他の動物に狩られていって、やがて絶滅してしまった。ふぶきの中に残っている無垢や純真は、ふぶきを傷付けたりはしないだろうか。ボクはただその事を案じるのだった。

 それともやがて、ふぶきもボク達と同じように無垢ではなくなって疑ったり諦めたり賢しくなって、どこにでもいるような凡庸なオトナになっていくのだろうか。その速度が、ただボク達とは異なるだけで。

 ボクにはよく分からなかった。

 ただ、ふぶきが今のような人間でなくなった時、きっとボクは寂しさを覚えるだろうという事は確かで、きっと、恋愛感情とは全く異なった感情で、ボクはふぶきの事を好きなのだろうと思う。言い方は悪いけれど、ある種の小動物を愛するように。

 その日もとても寒くて、けれどふぶきは相変わらず上着なんか羽織らずにセーラー服姿で平然と歩いている。風が吹いてスカートが揺れて、下着が見えそうになってもちっとも気にする様子なんかない。

 それにしても寒い日だ。ボクは首に巻き付けているマフラーを握るようにして身を縮ませた。

 ボクの少し先を歩くドードー鳥は、自分が傷付くかもしれないという可能性になんてまるで気付いていない様子で、無邪気に笑っている。ボクはできる限りこいつを見守ろうと決める。付き合うとか結婚とか、そんな事はどうでも良くて、ただ、この希少な存在が失われるのはちょっと勿体ないなと思っただけだ。

 空を見上げて白い息を吐くと、ふぶきは、へへ、と笑って飛び上がり、はだけた裾からへそが覗いた。ボクは何となく顔を赤らめてそこから目を逸らす。

 それから一瞬目を閉じて、ふぶきと一緒にドードー鳥を探しながら世界中を旅する様を想像して、それもあながち悪くはないかもしれないな、と思った。

 とても寒い、空が青くてきれいな朝だった。

(初出:角川書店発行「ザ・スニーカー」2007年2月号)

ドードー鳥と冬の空(前編)

 この間の英語の授業でテキストとして使われたのがルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」の一節で、そこに出てくるドードーという鳥について英語教師が、「この鳥は今では絶滅してしまった鳥類で」などと説明したのを聞いた桐島ふぶきは、「つまり、ドードー巡りって、絶滅したドードーを探し回る旅の事なんだよね?」と、そんな事を言ってボクを呆れさせたのだった。

「違うよ。同じところをぐるぐる回る事の喩えだろう? 考えが堂々巡り、みたいな。だいたい堂々巡りのどうどうは、漢字であってドードー鳥のドードーじゃない」

 国語が得意ってわけじゃないにしろまあ持っている知識だけでそれくらいの反論はできたのだが、ふぶきは納得しかねる様子で、

「へえ」

 とだけ呟き、それから肉玉うどんの麺を箸でつまんで、ちゅるり、とすすった。昼休み、学生食堂での出来事である。

 食事を終えたふぶきは、最後に寂しそうに呟いた。

「でも、絶滅したドードーを探してるうちに同じ場所に何回も行ったり来たりするかもしれないよ……」

 ふぶきは幼い頃に両親が離婚して今は父親と2人暮らしで、誰もが呆れてしまうような妙な感性を持った、けれど同時に、誰もが振り返ってしまうような美貌を備えた女で、ボクの幼馴染みだった。幼稚園も小学校も中学校も同じで、高校も同じ。別段どっちかがどっちかを懸命に追いかけてるとかそういうのじゃなくて、単純に、学区が一緒で学力も同じようなもんで、ってそれだけの話だ。別に深い仲ってわけでもない。ただふぶきもボクもあんまり親しい友達、ってのがいなくて、それでたまに一緒に飯を食ったりする。

「お前らホント仲いいな」

 と、たまにクラスメートにひやかされたりはするが、ボクとふぶきの仲は良くもなく悪くもなく、ただお互いの存在が空気のように当たり前になっているというだけなのだ。何せ同じ病院で同じ日の同じような時間帯に生まれて隣同士の保育器に入れられたってくらいだから、付き合いは長い。うちの両親が結婚してそろそろ17年くらいのはずで、ボクとふぶきの付き合いはそれとたった2年しか違わない。15年来の付き合い。そう聞けば、いかにも親友めいた響きに聞こえるかもしれないが、ボクとふぶきにそんな言葉は、たぶん、当てはまらないと思う。休日に一緒に出掛けたりした事もないし、あれこれ深刻な相談をした事も受けた事もない。それにそもそも、ボクには親友というものの定義がよく分かってはいないのだ。何だって他人同士が親友と呼ばれる間柄になれるんだ? 何か儀式や事務手続きがあるのか? 夫婦みたいに? お互いに確認し合う必要があるのか? ボクとキミは親友だよね。うんそうだね。とか言い合ったら親友になるのか? よく分からないが、同じような事が浮かんでくるばかりで結論も出やしないから、ボクは考えるのを止めた。ふぶき、こういうのを堂々巡りって言うんだぜ。なんて、そんな事を思う。

 それにしたってドードー巡りなんてまた、よくもそんな発想が出てくるもんだ。昔から妙な事ばかり考えるヤツではあったが、最近の思考の迷走ぶりはなかなか、思い出すだけで眩暈がしそうな感じで、

「ペストって病気の名前だよね?」

「そうだね」

「怖い病気なんだよね?」

「そうみたいだね。よく知らないけど。昔はとても怖い病気だったって世界史の授業で言ってたよ」

「でも、豚ペストっていうのは、豚しかかからないペストだからわたしにうつったりはしないよね?」

「豚ペスト? そんなのがあるの?」

「こないだテレビで言ってたよ。ぶたぺすと」

「ふぶき」

「ん?」

「それは多分、地名のブタペストじゃないかな。病気じゃなくて」

「あー。そうか。それで地図が出てたのか」

「豚の映像とか出なかっただろう?」

「そうだね。うん。ありがとう。やっぱエッちゃんは賢いねえ。ふふふ」

 なんて会話は日常茶飯事で、まあ、よく言えば自由な発想、だけれども酷い言葉で言えば阿呆、なんである。これで偏差値がボクと同じくらいだからボクとしてはちょっと傷付くが、言語関係に関してちょっとエキセントリックな発想が出てくる以外、ふぶきの記憶力や応用力はむしろボクよりも優れているのはボク自身分かっていて、結局プラスマイナスゼロ、って感じでボクらの成績は横這い横並びなのだった。

 そんなふぶきの変な感性は当然ふぶきのクラスでも知られていて(ボクとふぶきはクラスが違う)、この間もふぶきと同クラスの植松が、植松とボクは中学校が同じだったので時折会話をする仲なのだけれど、凄い勢いでクラスに駆け込んでくるや、

「エイジ! エイジ!」

 ってボクの名を呼んで大騒ぎで、

「何だよ、一体」

 とボクは問うた。まあ答えの予測はある程度ついていて、植松がやたら大騒ぎしてボクのところにくるのはふぶきに関する話の時だけなので、答えはやっぱり案の定、

「ふぶきが! ふぶきがさァ!」

 って笑いを堪えながら、聞き取り難い声で植松の言う事には、英語の授業で朗読をさせられたふぶきが、「ripe」という単語を大声で「レイプ!」と言い放ったという、まあなんとも下らない話であった。ボクは今さらそんな事で驚いたりしない。ふぶきは中学の時、「got them」という並びの言葉を自信たっぷりに「ガッデム!」と発音し、しかも叫び、英語教師の目を白黒させたりしている。
 そりゃ、必ずしも間違ってるとは言えない。実際ガッデムに近い発音だろうよ、それは、とは思うけれども、ふぶきは映画とかで出てくる「god damn you」であるところのガッデムという発音を、「got them」の事だと思い込んで、それで自信たっぷりにガッデム! などと叫んだのだ。

「だって映画じゃみんな叫んでるんだもん」

 と後になって弁明していたが、論点はそこではないのだ。ふぶきよ。そもそもそれはガッデムとは違うのだ。

 と、まあ、こんな感じで日常が過ぎているもんだからボクもふぶきが何を言おうといよいよ驚かなくなってきた。呆れるだけで。

 ふぶきはふぶきでボクが驚かないのをいい事に、自分のエキセントリックな感性への自覚が薄れていき、小さい頃はまだ、

「わたしって変なのかなあ」

 と、迷い躊躇いを口にする事もあったものだが、最近では、

「みんな寄ってたかってわたしの事を変人扱いするんだもん。やになっちゃうよ。その点、エッちゃんはそんな事しないから偉いねえ。よしよし」

 とか言ってボクの頭を撫でてきてボクは複雑な気分になる。ボクがふぶきの言動にあれこれ言わなくなったのは、付き合いが長いからこその半ば諦めが混じった感情の故で、もうとりあえず驚かないでおこうとか思っただけなのだが、それを、偉いねえ、とか言われても。むしろオトナになって妥協というか、達観というか、そういう方向に進んでいっただけの話、そしてふぶきだけがぽつんと取り残されているだけなのだ。

 そんなふぶきではあるが、見た目だけで言えば大変美しい顔立ちをしているものだから、周囲の男達からまじまじ見つめられたりするのはしばしばで、付き合って欲しいと告白された事も一度や二度ではない。現在ではボクと同じようなふぶきウォッチャーと化している植松も、中学の時にふぶきの美しさにのぼせあげて告白して、

「俺と付き合ってくれない?」

 と勇気振り絞って言ったところが、

「え? どこに?」

 と素で返されて、その瞬間、何か気持ちが萎えてしまったと言っていたが、

「だってよー、わざわざ手紙渡して人のいない場所に呼び出してんだから分かるだろ、普通さー」

 というその後の植松の言には、ボクは完全には賛同しかねるのだった。ふぶきのそういうところを理解してやれぬのならそもそも付き合いたいなどと願うべきではないのである。

 しかしそれに気付かぬ若人共は、命短し恋せよ乙女的な勢いでもって、まあ乙女じゃなくて男なんだけど、ふぶきを我が物にしようとあれこれ画策して、しかしそのどの計画もふぶきの感性には一向に届かず徒労に終わり、後には、あの女は無理だ、扱えぬ、などという感想が残るのみであった。酷いヤツになると振られた事で(そもそもふぶきにしてみれば振ったつもりもないのだろうが)、コロリと手のひらを返して、あの女は頭がおかしい、などという陰口さえ叩き始め、恋愛事には疎いふぶきも、そういった負の感情に対しては意外な程に鋭敏であるから、悲しみ、さめざめ泣いて、

「ううう。何で嫌われたんだろう。ううう」

 とかボクの前でさんざ疑問をブチまけたりするんであるが、ボクは、いや、それはね、などと詳細な理由をあれこれふぶきに伝えるような真似はしない。説明したところで理解できないからこそふぶきはふぶきなのであり、これまでだって、さんざん、自分は告白しているのだぞ、お前と付き合いたいと思っているのだぞ、などとクドクド説明した男がいなかったわけではないのだが結局うまく伝えられないようであった。そんだけ必死にやってるヤツで伝えられぬものを、ボクが伝えられようはずもない。ボクはふぶきが今のままでも別に困らないし、あれこれ驚くような事もなくなったし、このままふぶきとの付き合いが続いたりいずれ途切れたりしてそのうちお互いが別々の道を歩んでいって、って、そんな感じでいいのだ。ただ願わくば、いつか、ふぶきのこの感性を受け入れてあげる、その上で男女の付き合い云々というものをきちんとふぶきに理解させてやれる男というものが、ふぶきの前に現れればいいのにな、とは思う。そもそも1人で生きていけるのだろうか、あいつは。などと考えながら、ふぶきのクラスは現在物理の授業中である事を思い出し、窓際一番後ろの席で、こくり、こくりと舟を漕ぐふぶきの姿を想像した。物理が大の苦手なのだ。ふぶきは。だから中学の時から物理の授業中は寝てばかりいる。鼻提灯とか膨らませて。

 まあ、そんな感じでボクとふぶきの密接なのだかそうでないのかよく分からない曖昧な関係は続き、高校に入って最初の冬を迎え、みんな制服の上からダッフルコートとか着込むような時期になって、けれどふぶきは1人だけセーラー服1枚で登校していた。

「わたし、冬が好きなんだ」

 と広言するふぶきは、名前の通り、真冬の吹雪凄まじい日に産まれたのであり、という事はすなわちボクもその日に産まれたのであるが、そのボクが寒いのは苦手であるところを見ると別段産まれた日とふぶきのその嗜好とは関係性はないものらしい。

 さておき、ふぶきは指先かじかむクソ寒い早朝の空の下を、薄っぺらなセーラー服姿でスキップなどしながら登校して、それを見た人々は、やっぱりあの女はどこかおかしい、という感想を募らせているようであった。まあ常識人に見られるためにわざわざ着たくもない上着を羽織るというのも歯痒い話であるし、本人は別に気にしていないようだからボクは何も言わないでただ薄着のふぶきを見て、ああ、寒そうだなあ、などと思うだけだ。

 そんな中、それでもまた1人ふぶきに突撃して撃沈されたとか、そんな噂が上がったりすぐに忘れ去られたり、冬の寒さは厳しくなる一方で、ボクは白く濁ったため息を吐いたりする。一体ふぶきはどうしたら他人を受け入れるのだろう。今までいろんなヤツがふぶきに告白したけれど、顔がいい奴もいたし性格がいい奴もいたしスポーツができる奴、勉強ができる奴、多種多彩な男達がいて、ボクの目から見てもいい男ってのはたくさんいたのだ。しかしそのどれもふぶきの眼鏡に適う存在ではなかった。ふぶきが彼らを受け入れなかったという事は、つまり、そういう事なのだろう。

「ふうん」

 昼食の最中にそんな呟きを発すると、ふぶきは鶏みたいに首をくりくり動かしてボクを不思議そうに見つめている。

「ふうん、って、何が?」

「ん? 何でもないよ」

「む。隠し事をしているな」

「ボクだって隠し事くらいあるよ」

「むむ」

「何だよ。おかしいかい」

「むむむ」

 と唸りながらクラブサンド頬張るふぶきが何を考えてるのかはよく分からない。普段なら、まあこれで終わりだ。終了。そのまま食事を再開して昼休みが終わって授業が開始されるんであるが、その日に限って妙にふぶきが何を考えてるかっていう事が気になって、

「あのさ」

 とボクは言う。ふぶきは怒ったように頬を膨らませてもぐもぐしているのだが、実際は怒っているわけでなくてクラブサンドが口の中いっぱいに詰め込まれているからだ。

「ふぶきは何で告白されても絶対断るわけ? そんなに気に入らないの? 結構いいヤツもいたと思うんだけどさ」

 ボクの一言にふぶきは目をぱちくりさせてもぐもぐし続けて、そのまま咀嚼しながら、

「らんれ?」

 と言う。

「いいよ。飲み込んでからで」

「うん。ちょっろまっれ」

 で、もぐもぐもぐもぐ噛むスピードを上げてごくりと半ば無理矢理な感じで口の中のものをいっぺんに飲み込むと、ふぶきは苦しそうにノドをひくひくさせ始めた。ボクが自分のお茶をふぶきに差し出してやると、ふぶきはそれを受け取って飲み干してグラス置いて、ふはー、と息を吐いた。

「ありがと。相変わらずエッちゃんは優しいねえ」

「そうかい」

「そうだよ。優しいね。ふふふ」

 って会話してるうちにふぶきはボクの質問の事なんかすっかり忘れてしまっているから困る。

「……あのさ」

「ん? ああ、何だっけ。エッちゃん、何か質問があったんだっけ?」

「いや、いいよ」

「む。隠し事をしているな」

「ボクだって隠し事くらいあるよ」

「むむ」

 図らずも堂々巡りな感じになってボクは苦笑する。ボクの頭の中ではもう堂々巡りはドードー巡りって変換されるようになっていて、絶滅してしまったドードー鳥を探す、そんなアテもない旅を続けるうちに、同じ土地に何度も足を運ぶハメになってしまった哀れな旅人を想像してしまっている。

 ふぶきの考えてる事なんて結局聞いたところで分かるはずもない。それこそドードー鳥を追うようなもんだ。見付かるはずのない鳥を探す無謀な旅と同じだ。だから堂々巡りになってしまうのだ。そう結論付けてボクは首を振った。

「やれやれ」

 呟くと、昼休み終了5分前を示すチャイムが鳴った。

 で、世間はクリスマスシーズンに突入して街のあちこちに赤だの緑だのが目立ち始めてたまたまそこらへんに生えてただけのように見える大きな木にはピカピカのライトだの星飾りが付けられてきらびやか、流れるミュージックもサンタクロースはまだかまだか、って感じのものばかりでクリスマスが嫌いなボクとしては大変面白くないわけである。

 というのも、ボクの産まれた日というのがクリスマスと1日しか変わらぬ、しかも24日ならまだクリスマス・イブってやつで祝われてるものを、ボクが産まれたのは後ろに1日ズレてる26日だから、もう、11月の頭くらいからガンガンに盛り上がってたクリスマス気分が一気にしょぼーんと萎れたまさにその日で、小さい頃からクリスマスと一緒くたにして誕生日を祝われた事しかないのであるボクは。だいたい、クリスマスってのはイエス様か何かの誕生日のはずで、それがどうしてそんなにもお祭り騒ぎになるくらいめでたいのかはクリスチャンではないボクにはよく分からないんだけれども兎に角、はっきりしてるのはそれがボクとは何の縁もゆかりもないおっさんの誕生日でしかないという事実で、やっぱ26日産まれとしては、何で26日に産まれてるのに25日に祝われなくちゃいかんのだ? そんなにそのおっさんが大事か? ボクみたいなつまらん男の誕生日よりも磔になったおっさんの誕生日の方が大事か。左様か。いいよいいよ、もう。そんなんなら祝わんでくれても。とか、思ってしまうのは仕方ないと思う。実際問題。それでも祝ってくれるだけマシっちゃマシだなあ、とか思ったのは中学生になってから、「あんたももういらんでしょう? パーティとか。そんな年でもないもんね」という母親の一言でただ机の上にお金入った封筒が置かれてるだけの誕生祝いになった時だった。人間はゲンキンなものだから、今まで疎んでいたものの価値を、失ってから気付いたりする。こっ恥ずかしくはあれど、おめでとうおめでとう、と言われる事はそんなに悪くないものだったのだ。

 で、まあ、なんでこんな話を始めたのかって言えば、ボクと誕生日が同じであるふぶきが、あいつは自分の誕生日がクリスマスから1日遅れである事に不満を抱かないどころかむしろ嬉しそうに、

「だって、クリスマス直後ってケーキがセールで安くなってるんだよ。何かお得だよね!」

 などと言うもんだから、普段のふぶきの奇行奇言に呆れたりするボクも、さすがに少し感心して、なるほど、ものは考えようだなあなどと思い知らされたのだった。

 さりとて、なるほどなるほど、と相槌打つのも妙な感じがしたので興味なさそうなふりを装ってボクが、

「ふうん」

 と答えると、ふぶき、

「あれ? エッちゃん、ケーキ嫌いだっけ?」

「いや、嫌いじゃないよ。好きでもないけど」

「そうかそうか。じゃあエッちゃんのお母さんがエッちゃんにくれたケーキはわたしのところに届けるといい!」

「憶えてたらね」

 と、誕生月を迎えたボクとふぶきはそんな話をしながら昼休み、やっぱり友達もいないんで一緒に食事をとりながらそんな話をしていた。

 しかしそんな話があったところで実際にボクがふぶきのところにケーキを届けるなどという事態を迎えるわけはない。何故ならボクはふぶきと幼馴染という関係ではあれどふぶきの家に遊びに行った事などないのだ。というのも、ふぶきの唯一の肉親である親父さんが少しばかり変わった人で、ボクの住んでる近所じゃまあ有名な話、犬の散歩中の老人に、うるせえ! と怒鳴りながら水をぶっかけた、なんてのはかわいいもんで、子供がキャッチボールをしていたところが大暴投で桐島家の庭にボールを投げ込んでしまい、謝って取りに行こうとしたら猛烈な勢いで親父さんが飛び出してきてコドモの目の前でボールにナイフを突き立てて殺すぞ発言したとか、夜中に公園に出かけて誰を落とすためかも分からぬ落とし穴を掘っていたとか、まあそんな噂の絶えない人だったから、「あんたもあの家には近付いたらいかんよ」などと幼い頃から母親に言いつけられて今に至る、というわけだ。

 ふぶきを知る者としては、あの親にしてこの子ありなのかなあ、などと思ったりしないわけでもないが、それにしてもただ暢気で素っ頓狂な発言を繰り出すふぶきと、やたらめったら他人に対して攻撃的である親父さんとでは、同じ奇矯さでもいささか種類の異なるもののように思える。

「え? お父さん? 優しいよ? 何で?」

 父親の事を問えばふぶきはいつだってそう答えるのだが、それが本心なのか建前なのかはよく分からない。本当は殴られたりなんだりしてるんじゃないかなどと、時折、特に夕食時に母親からふぶきの親父の奇行の噂を聞かされた時などは心配になったりするが、それを確かめる術もない。しかし夏服を着ていたふぶきの体に虐待などの跡があったかと言えば否であるし、まあそういう事はないのだろう、杞憂だろうと思いたいボクであった。それに、もし仮にふぶきが実の父親にブン殴られているなどとしてもボクに一体何ができるというのだ? 何もない。ボクとふぶきはその程度の関係でしかあり得ないのだから。